徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

バッジが語る生前の意思 ~検体登録章~

検体登録章


最近なにかと話題のマイナンバーカード。以前取得したときに、「臓器提供意思」の欄が小さく印刷されているのに気付いた。

臓器提供意思

脳死後及び心停止した死後/2心停止した死後のみ/3提供せず

<1・2で提供したくない臓器があればX>【心臓・肺・肝臓・腎臓・脾臓・小腸・眼球】

署名年月日 年 月 日  署名

自動車運転免許証の裏面にも同様の印刷があって、私は見るたび迷いを覚える。一体どれくらい多くの人が悩みながら記入しているのだろうか、と考える。

提供せず」、という選択肢もあるので、臓器提供に抵抗があるならここに丸印を入れればよい。それは個人の自由だ。ただ、臓器移植でしか救えない命や、健康に悩む人がいるのも事実である。将来、再生医療技術が完全に実用化されれば臓器提供問題は解決するのかもしれないが、まだかなり遠い未来になりそうだ。

臓器提供を希望するしかない人たちの存在を知りながら、「提供しない」と断言するのも、それでよいのかという気になる。私が臓器提供を必要としないで済む身体に生まれたのはただの偶然でしかない。その幸運をせめて自分の死後に還元すべきではないのかと。

一方で、死後とはいえ自分の身体がバラバラにされるのが抵抗ないといえばウソになる。これはもう感情として。

いつまでもその葛藤のせいで、結局未記入状態のままである。いや実は、私のような人は多いんじゃないかとも思う。

 

さて、今日のバッジは、臓器提供ではなく、検体に関する一品である。

画像の金色のバッジの裏面に「検体登録章」とある。手と手を合わせたデザインではないかと思う。どこの組織が作ったものかは不明である。

検体登録とは何か。公益財団法人日本篤志献体協会の公式サイトには次の説明がある。

献体とは、医学・歯学の大学における解剖学の教育・研究に役立たせるため、自分の遺体を無条件・無報酬で提供することをいいます。
「自分の死後、遺体を医学・歯学の教育と研究のために役立てたい」とこころざした人が、生前から献体したい大学またはこれに関連した団体に名前を登録しておき、亡くなられた時、遺族あるいは関係者がその遺志にしたがって遺体を大学に提供することによって、はじめて献体が実行されることになります。

研究目的であるところが臓器提供と異なる点だ。当協会の事業実績によると、令和4年度に「全連加盟大学へ献体登録希望者を紹介した数 139件」とある。けっこうあるものなのだな、というのが私の印象だ。一般人は研究機関への検体などあまり考えもしないのではないか。

臓器提供も希望する場合は、検体はどうなるのか気になっていたが、それについては次のようだ。

正常解剖には眼球や腎臓などの臓器が揃ったご遺体がより望ましいのですが、アイバンクなどへの登録も同時に希望される場合は、同時登録を受ける所と受けない所がありますので、献体の会または大学にご相談下さい。

なるほど、検体も臓器提供もともに医学に貢献する行為とはいえ、ケースバイケースながら両立させるのは基本的には難しそうだ。

実際の検体された場合、遺体は具体的にどうなるのか。

1防腐処理等の解剖準備期間として3~6ヶ月くらいが必要です。
2実際の解剖学実習期間として通常3~7ヶ月ぐらいを必要とします。
3実習は大学ごとに決められた時間割によって行われるために、その年の実習に間に合わない場合には翌年の実習まで保管されることになります。
4その他、おあずかりしているご遺体の数の状況によって返還までの期間がかわります。
 解剖学実習終了後、ご遺体は一体ごとに大学側で丁重に火葬し、ご遺骨をご遺族にお返しいたします。なお、いずれの大学でも、献体された方々のために、大学の公式行事として毎年慰霊祭が行われています。

けっこう時間がかかるのだなあと思った。

21世紀になっても、臓器移植にしても研究にしても、篤志により提供された実物の遺体が支えているのである。

 

どっちがいい?検体と臓器提供と選ぶとしたら?

ときかれたら、どうしようと想像する。

私なら、悩むところではあるが、より直接困った人を救えそうな臓器提供を選ぶかもしれない。そう思いながら、やっぱり私のカードの「臓器提供意思」欄は未記入のままだ。

あのー、もう少し、死を身近に感じるようになってから決めさせていただく、ということでよいでしょうか。すみません、もうちょっと時間をください。

 

だがこのバッジの所有者は違ったようだ。

このバッジはもしかしたら検体を決意しどこかの機関に登録した人がもらったものかもしれないのだ。私が臓器提供意思の記入をいつまでも躊躇っているのに比べ、このバッジの所有者は検体を決断した。

この人は死後、生前の意思どおり検体に付されたのだろうか。そもそもなにを思って検体登録するに至ったのだろう。

なんだか、おろそかに扱ってはいけないバッジのように思えてきた。

フランス 2024年オリンピックパリ大会のメダル

2024年はオリンピックイヤー。開催地はパリである。パリは、ロンドンにつづくオリンピック3回開催都市となる。まあ3回目といっても、前回の開催が100年前の1924年なのでずいぶん久しぶりではある。そして、東京大会が2021年に開催されてから3年後の開催という異例な大会でもある。

さて、先日、今年のパリ大会のメダルが発表されたのでさっそく紹介しよう。 

olympics.com

2024年オリンピックパリ大会のメダル

画像は、中央が金メダルのウラ面、右が銅メダルのオモテ面、左がパラリンピックのオモテ面。パラリンピックメダルの裏面は、オリンピックメダルとほぼ同じデザインである。

IOCの規定により、オリンピックメダルの表面のデザインは、「パナシナイコスタジアムに立つ勝利の女神ニケ像」と定められている。ただ、今回のメダルは、よく見ると女神像の右側にエッフェル塔が立っている。従来のメダルとの違いである。

今回のメダルの最大のポイントは、裏面にはめ込まれた6角形のプレートだ。

PARIS2024」と大会ロゴが描かれたこのパーツは、本物のエッフェル塔の鉄材からできているという。オリンピックメダルの一番のデザインの見せ所は、ウラ面にこそあるのである。

夏季大会に限定すると、メダル本体と異なるパーツを組み込むデザインは、2008年の北京大会以来だ。北京大会では、裏面に円形の「翡翠」がはめ込まれた斬新なメダルが登場した(ただし、デザインが自由な冬季大会では様々なタイプのメダルがある)。

パリ2024組織委員会のトニー・エスタンゲ会長はメダル公開にあたり、「金、銀、銅といった貴金属と、フランスの宝であるエッフェル塔の最も貴重な金属を融合させるために、膨大な作業が行われました。2024年大会のメダルの特徴は、融合なのです」と話し、「2024年大会のメダルで特にインパクトがあるのは、エッフェル塔のオリジナルの金属、鉄の一部が含まれていることです。これが私たちが求めていたことです。この金属を通じ、大会に参加するすべての選手たちに活力を与えたいと考えました」と続けた。

エッフェル塔では1986年に大規模な改修工事が行われ、鉄の一部がエレベーター設置のために取り外されパリ市が保管していたという。今回のパーツはそれを利用したものという。

ジュエリーブランドのデザインだからか、この鉄片は、あえて宝石のように爪で本体に固定されており、それを中心にして光芒線が広がっている。まるでこの鉄片こそが宝石であるかのように。ただの鉄ではない、それはパリの歴史がこもった金属なのだ。

またパラリンピックのほうはエッフェル塔を真下から見上げた図なのだそうで、なんというか「エッフェル塔づくし」なメダルである。やっぱりパリのシンボルといえばエッフェル塔ということになるのだろう。「日本といえば富士山だろ」的なベタな感覚はどうなんだろうという感じもするが。

デザインはフランスのジュエリーブランドであるショーメ(CHAUMETが手掛けた(東京大会ではデザインコンペが開かれ、プロデザイナー川西純市氏の作品が採用された)。ジュエリーメゾンがオリンピックのメダルをデザインするのは今回が初めてなのだそうだ。メダルの製造は、フランス造幣局が担当し、今大会では合計5,000個以上が作られる予定である。

印象としては、メダルのオモテ面のニケ像の周りに光芒線が描かれたり、エッフェル塔を描いたり、夏季大会メダルの「代り映えのなさ」に少しでもオリジナリティを追加させたいように見える。

裏面は、金銀銅の華やかな金属色の中心に、あえて武骨な鉄製プレートをはめ込むことで、パリの歴史を強調する意図であろうか。この六角形のプレートの表面には、微妙な凹凸が見える。表面をピカピカの鏡のように研磨せず、あえて鉄の質感を強調する表面加工をしているのは、エッフェル塔の、そしてパリの歴史の重みを感じさせる工夫なのだろう。

また、リボンをメダルに通して吊るす部分が、メダルの内側に施されているパターンは最近の流行りなのか、2018年のリオデジャネイロ大会、2020年の東京大会と続いている。リボンから直接メダルがぶら下がっているようなシンプルな印象がある。

参考に、東京大会時にここ最近のメダルを取り上げた当ブログの記事をリンクしておく。

badge-culture.hatenablog.com

 

大会開催まであと5か月余り。このメダルを巡ってまた色んなドラマが展開されるのである。

「毛主席が贈った珍貴なるプレゼント マンゴー 」 ~文革期毛沢東バッジとマンゴー~

かつて、当ブログで毛沢東バッジに登場するマンゴーについて紹介したことがあって、「なんでマンゴーが毛沢東と一緒に登場するのかと疑問に思うムキもあろうかと思うが、その辺はそのうち改めて」と書いたきり気づけば15年以上が経過してしまった(2008-07-17登録)。

badge-culture.hatenablog.com

改めて、その宿題?を解決しておこう。

 

マンゴー崇拝ともいえる社会現象が中国で起きたのは、文化大革命真っ盛りの1968年8月の出来事がきっかけであった。

1968年4~7月頃、北京の清華大学紅衛兵組織同士の内ゲバ騒動が過激化した(この辺の事情は、ウィリアム・ヒントンの「百日戦争―清華大学文化大革命」に詳しい)。これを鎮圧するために、毛沢東は労働者を中心とした宣伝隊を組織し、派遣することを決定。3万人からなる労働者農民毛沢東思想宣伝隊が派遣され、事件を沈静化させた。最後は毛沢東が自ら紅衛兵組織のリーダーを招集し、騒動の沈静化を呼びかけた(7月28日)。これで事態は決定的に収束に向かうことになる。全国で吹き荒れた紅衛兵運動も、下火になる契機となった事件だった。

それから約1週間後、北京を訪問中のパキスタン外相は、毛沢東へのみやげにマンゴー(40個とされる)を贈った。毛沢東は、このマンゴーを清華大学事件で活躍した首都労働者農民毛沢東思想宣伝隊へ贈ることにした。8月5日のことであった。毛沢東から直々の贈り物に、宣伝隊は熱狂した。

中国でも南方ならマンゴーは生産されている。が、北京地方では当然作ることはできず、当時の状況からして一般的な中国人にとっては「珍しく貴重な果物」と映ったことだろう。仮に贈られたのがリンゴなどのより一般的な果実であればここまでの騒動にはならなかったのではないかと想像する。

贈られた思想宣伝隊のほうはといえば、せっかくいただいたのだからみんなでありがたく食べよう・・・とはならなかった。毛主席から温情深い贈り物を人民にお披露目しなくてはという熱情にかられたのか、このマンゴーを全国各地に贈ることにした。とはいえマンゴーは柔らかく、そんなに日持ちする果物ではない。マンゴーには防腐処理がほどこされたりしたともいう。

さて、こうして全国に散ったマンゴー。各地でマンゴーを迎えるパレードや展示会が開催されたりして、まるで毛沢東の分身を迎えるような熱狂を呼び起こした。

それだけではない。当時流行していた毛沢東バッジにもマンゴーが登場した。これ、知らない人にとってはなんで毛沢東バッジにマンゴー?と困惑することだろう。

コレクションの中から、マンゴーバッジを3点紹介する。

マンゴーバッジ(その1)

1点目は、ただ「マンゴー」としか書かれていない。皿に置かれたマンゴーがドン!と大きく描かれていて、かなり「変なデザイン」と思われてもしかたない。背景には地球儀が描かれ、国際主義を表現しているのであろう。

裏面には、「中国人民解放軍支左弁公室人武部」とある。

マンゴーバッジ(その2)

2点目は、労働者と農民がマンゴーを支え持つデザイン。マンゴーがかなり大きくデフォルメされている。背景には数多くの赤旗がはためく。

裏面には「蘇州革命委員会工人毛沢東思想宣伝隊」とある。

マンゴーバッジ(その3)

3点目は、「顆顆芒果温情似海」と毛沢東の温情の深さを賛美するスローガンが書かれている。皿に山盛りにされたマンゴーが描かれている。

裏面には「哈電机革委工代会」の文字があり、「ハルピン電機革命員会労働者代表会」の意であろう。

以前紹介した「夜光マンゴーバッジ」もこのシリーズである。その他にも多数のマンゴーバッジが私のコレクションにはある。毛沢東バッジの中でマンゴーバッジは割とメジャーな存在なのである。

 

今日から年末休みに入ったので、少し昔話を書いてみたい。

さて、私がマンゴーバッジに注目するようになったのは、ある「マンゴーグッズ」との出会いがきっかけであった。

もうずいぶん昔のことになるが、私が北京の骨董店巡りをしていた時、とある店の棚の上の方にあるガラスの置物に気がついた。それがこれである。

毛主席が贈った珍貴なるプレゼント ― マンゴー ―」。

レプリカのマンゴー(その1)

私は、毛沢東が贈ったマンゴーが防腐処理等されて全国で展示されていたことを知っていたので、まさかあのマンゴーが!?とびっくりしたのだが、実はその複製品なのであった。ちゃんと「複製品」と左下のほうに書いてある。中身のマンゴーは蝋細工で、非常にリアルにできている。「1968年8月5日」とあるのは、毛沢東が思想宣伝隊にマンゴーを贈った日を記念して書いてあるので、このレプリカの製作日ではない。

蝋細工の出来といい、時代を感じるガラスカバーといい、すっかりマンゴーの形にへこんでしまった変色したスポンジといい、保存状態もよく、60年代の雰囲気をまざまざと感じさせられた。私は、こんなモノがあるのか!と心から興奮を覚え、大喜びで購入した。それほど高くはなかったように思う。ガラスが破損しないよう注意して日本まで持ち帰った。

今日、改めてこれを見ていたら、中国の町々で骨董市巡りをしていた頃のことが思い出され、ものすごく懐かしい気分に浸った。実に楽しかった。

 

実物のマンゴーは結局永久保存はできなかったろうが、当時の中国ではレプリカのマンゴーを作ってその代用品にしたのである。

毛沢東とマンゴー。このキッチュな取り合わせが私の心を刺激し、それ以来「レプリカマンゴー」を探し集めるようになってしまった。

そうして注意して探せば、中国の骨董街や骨董市でたまに見つけることができたのである。

マンゴー置物はさまざまなモノがあるが、カバーに関しては、上記のような「ドーム型」と、「箱型」がある。また、中身のマンゴーは、蝋細工製と中空のプラスティック製のものがある。

なお、「箱型」タイプがこちら。

レプリカのマンゴー(その2)

台は木製、カバーは4枚の板ガラスを組み合わせたツクリ。中身のマンゴーはプラスティックである。

昔の中国の置時計のカバーにはこれらとそっくりなモノがあって、このマンゴーのガラスケースは、専用というよりこうしたものを流用して作られたのではないかと密かに疑っている。

なお告白すると、東日本大震災の時、家族の無事を確認した私が次に気になったのは、「毛主席のマンゴーは大丈夫か」ということであった。幸い、地震による私のコレクションへの被害はほとんどなく、うちに帰ってほっと安心したことを思い出す。

 

さて、こうして当時のモノに触れることで文革期のマンゴー騒動に関心を持った私。

ところで実際、当時毛沢東が贈ったマンゴーとはどんなものであったか。マンゴーには多くの品種が存在する。私が入手した蝋細工のマンゴーは黄色い果皮でややずんぐりとした形をしていた。私の知っているマンゴーとは少し違うように感じた。

現在の日本で一般に流通しているマンゴーは主に2種ある。

九州や沖縄地方で作られるいわゆるアップルマンゴーアーウィン種)は、表面の色が熟すと赤くなり、果形ももっと丸い。一般に高級品種だ。

またスーパーなどでよく見るいわゆるフィリピン産のペリカンマンゴーカラバオ種。水牛の意)は、色は黄色で、やや扁平で果実の先端がすこし尖った形状である。こちらはごくリーズナブルで、ひとつ数百円で買える。

どちらも毛沢東が贈ったマンゴーとは明らかに異なる種類である。実はマンゴーは世界中でたくさんの品種が作られている。

en.wikipedia.org

毛沢東のマンゴーは、パキスタンであった。パキスタンはマンゴーの大産地で、一説には、例のマンゴーはパキスタンではメジャーな「シンドリ」という品種という。写真で見ると、色といい形といい、確かに似ている気がする。味はといえば、糖度が高くて酸味が少なく、まあとにかく非常に甘いらしい。

一般的ではないにしろ、日本国内でも輸入品を入手することは可能らしいので、ぜひチャレンジしてみたいと思っている。

当時、毛沢東から贈られた労働者農民毛沢東思想宣伝隊が(もったいなさ過ぎて)味わうことができなかった味を、私が試してみたいと思うからだ。

よし決めた、来年の目標にしよう。

毛沢東生誕130周年 ~毛沢東バッジ 武漢空軍 1968.12.26~

毛沢東バッジ「武漢空軍 1968.12.26」

今日、12月26日は、毛沢東生誕130周年の日にあたる。毛沢東は、1893年(光緒19年)12月26日、湖北省に生まれた。ニュースによると、中国各地で毛沢東を称えるイベントが行われているという。建国の父である毛沢東の生誕日は国家的記念日ということになるのだが、ここが微妙なところで、現習近平政権にとって、毛沢東はますますナーバスな存在になっているように見える。

中国共産党にとって、今も毛沢東は権威の根源であり、自らの権力の正当性ともなっている。だが、かつて文化大革命毛沢東を熱狂的に支持した人々は、当時共産党のトップであった劉少奇や鄧小平を「走資派」と批判し追い落としたのである。鄧小平をはじめ、毛沢東後の中国の指導者は、みな毛沢東の扱いには頭を悩ませてきたのである。劉少奇らが「走資派」であるとすれば、習近平はなんであろう。現中国政権は、いやこれまでの毛沢東後の指導部は、みな毛沢東をあがめつつ、その思想を巧みに骨抜きにしてきた。

毛沢東のスローガン「造反有理」を叫ぶ国民の存在は、現政権にとっては反体制そのものである。習近平政権も、毛沢東への支持が現政権への批判に向かうことを警戒しているようだ。

さて、今日は毛沢東の生誕130周年ということで、毛沢東バッジを紹介しよう。

毛沢東バッジというと、一番有名なのはアルミ製で毛沢東の頭部を浮き彫りにし、赤く着色したタイプだが、これは中央にカラープリントしたパーツをはめ込んだ少し手の込んだタイプである。グラデーションの背景が映える。

緑の軍服に身を包み、笑みを見せる肖像の周りに、「偉大的導師 偉大的領袖 偉大的統帥 偉大的舵手」、「毛主席万歳 万歳 万万歳」とある。この「偉大的~」は、通称「四つの偉大」。文革時代の定番スローガンである。毛バッジにもよく登場する。

裏面には、「慶祝毛主席万寿無疆 武漢空軍 1968.12.26」とある。「万寿無疆」とは、長寿長命の祝い言葉である。直接書かれているわけでないが、日付までかかれていることから生誕記念に作られたバッジであることは間違いないだろう。

 

日本橋の過去と未来 ~日本橋開橋紀念章(明治44年)~

日本橋開橋紀念章(明治44年

今日も明治時代のバッジを紹介する。

 

今では東京日本橋の上に高速道路が建設され、分断されたようになっている。私などは完全にそういうものだという気になっているが、当然以前の景観は全く異なる。

「高速道路を撤去し、日本橋をかつての姿に」という運動があることは知っていた。だが、名橋「日本橋」保存会という組織が、首都高速道路が作られた昭和38年の5年後に創設され、高速道路撤去の主張をしているというのは知らなかった。日本橋の景観を悪化させる高速道路には、早くから反対意見があったのだ。

技術的には可能ということだが、高速道路の架け替えはきっと恐ろしく大工事になるのではないか。が、もしできたら、日本橋の景観は一変するだろう。確かに見てみたい気はする。

さて、現在の橋そのものは、明治44年(1911年)に完成した。開通式は4月3日に行われたという。それまでは江戸時代以来ずっと木造橋をかけ替えてきたのだから、意外と新しく作られたように感じる。新たに建設されたのは石造二重アーチ橋である。西洋風意匠が施され、装飾的である。

その後、関東大震災東京大空襲と、災害戦災による被害を受けつつ現代にいたる。今では橋全体が重要文化財に指定されている。

さて、今日の一枚はその開通記念品である。

オモテ面は橋の様子で、石造りのアーチや欄干の飾り、遥か雲の上にのぞく富士山が味わい深い。打刻は比較的薄く、銀製で金メッキが施されている。経年劣化により縁のあたりにメッキの傷みが見える。

裏面には「明治四十四年四月日本橋開橋紀念章」(「記念」ではない)とある。

箱付きで、ふた裏に「林製」の金文字が見える。聞き覚えのないメーカー名である。

ツクリとしては特筆すべきことはないが、全体に丁寧なツクリで、歴史的な意義ある一品である。

明治期の小学校生徒に贈られた「勲章」 ~西村山郡小学校優等牌~

西村山郡小学校優等牌

このブログでは、古いものから新しいものまで、さまざまなバッジやメダルを取り上げてきた。まあ日本のバッジ文化は明治時代以降なので、どんなにさかのぼっても150年の歴史しかないのだけど。それでもやっぱり古いバッジは興味深く、いろいろ発見があって取り上げるのが楽しい。

さて、今日の一枚は一見して古い明治期のメダル。裏面を見ると正体が判明する。

西村山郡小学校生徒 優等牌

という文字がタガネで彫られている。

成績優秀な小学生に贈られたメダルなのである。それにしても、旭日をデザインしたメダルは、まるで日清・日露戦争期の軍メダルで、パッと見では小学生用とはとても思えない。

西村山郡、というのを調べてみると、明治11年11月に成立した郡区町村編制法により山形県中部に誕生した行政区である。さくらんぼで有名な寒河江市などが含まれていた。当時の郡役所の洋館が寒河江市に移転保管され、今は博物館として利用されているそうだ。

「優等章」ではなく、「優等牌」というのも時代を感じる。「章」も「牌」も、意味としてはほぼ同じでかつて「メダル」などを指す語として「」が用いられた。これだけでも時代を感じさせる。

成績優秀な小学校生徒がこの「牌」を贈られたのであろう。このような児童生徒を表彰するメダルは、実は数多く存在する。日常的に身につけるものなのか、それとも何かの行事などの時に限定して使用されたのか。どちらにせよ、どんなに成績が良くても、メダルを贈るという表彰方法は現在の小学校ではまずありえなさそうである。

このメダルの旭日デザインが勲章や軍関係メダルからインスパイアされたのは間違いない。紅白のリボンも、旭日勲章の配色を逆にしたような感じだ。

今から100年ほど前。小学校の試験で優秀な成績を取り、このメダルを胸にした生徒は、学友から羨望の眼差しを浴び誇らしい気持ちになったことだろうか、などと想像を膨らませる。

日本 創価学会会員章、財務部員章

創価学会会員章、財務部員章

池田大作死去。ネットニュースで見たときは、思わずエッと声が出た。享年95歳(死去は11月15日、発表されたのは11月18日の創価学会創立記念日だった)。

池田大作の健康状態については、ここ10年以上公式の場に姿を見せなかったことから、実はとっくに死去しているのでは、などというウワサも飛び交っていた。公式にはいまだ健在ということであったが、年齢も年齢である。

創価学会は公称800万人の信徒を抱える宗教団体で、池田大作はその名誉会長という立場であった。実務からは退いているとはいえ、創価学会をここまで大きくしたのは池田大作の力によるところが大きく、最高権威の存在であり続けた。

姿を見せなくなって久しいことから、死去による直接的な影響はそれほど大きくないのではないかとも言われる一方、精神的支柱を失ったことで団体の衰退につながるという声もある。しかし、創価学会では学会員の高齢化が課題となっている中、絶対的権威の喪失は中長期的な影響は少なくない気がする。

創価学会員が本当に800万人もいるのかというのは疑問だが、全国あちこちに関連施設があって(私の通勤する途中にも学会の立派な文化会館があるのだ)、その財力の大きさがうかがわれる。

創価学会は、本来、日蓮正宗の信徒団体であった。しかし日蓮正宗創価学会との軋轢が次第に高まり、ついに日蓮正宗創価学会を破門にするに至る。1991年のことであった。創価学会は、それ自体が独立した宗教団体化したのである。

このバッジの「鶴丸」は、日蓮正宗宗門の紋であるため、現在では全く使用されていない。

現在創価学会のシンボルマークは「八葉蓮華」である。学会の公式サイトによると、次のように説明している。

創価学会のシンボルマークは、八葉蓮華(8枚の花弁の蓮華)を図案化したもので、1977年(昭和52年)3月に決定しました。
八葉の花模様が幾重にも広がる様子は一人一人が自身の生命に内在する無限の可能性を開き顕し、また日蓮仏法が世界に流布していく様相を表しています。
更に全体として豊かなふくらみをもっている姿は、功徳に満ちあふれる学会員一人一人の姿を表現したものです。

ところで、このバッジの「財務部会員章」というのが何なのかよくわからないのだが、結構このバッジをたくさん見るところを見ると、部会員数は随分多いようだ。どうやら「財務部会」というのは御布施(寄付金)関連の部署らしく、なるほど莫大な財力を誇る創価学会では大規模な部署なのは間違いないだろう。

学会員のバッジと財務部会員のバッジを比較すると学会員バッジのほうが一回り大きい。一般的な感覚からすると逆のような気がするが、裏面をよく見ると財務部会員バッジのほうは純銀製である(歴史ある大規模な組織だけに、色んなバリエーションのバッジがある可能性はある)。

なお、現在の組織図では「財務部」という名称は見えない。改組されたのであろう。