
表面には近代的ビルディング。裏面を見ると「日光博覧会」とある。昭和2年に大阪高島屋で開催された日光博覧会の記念品とわかる。
メダルを子細に見てみよう。
表のビルディングは、高島屋大阪長堀店が忠実に描かれたものだ。高島屋の公式サイト「高島屋史料館」に載っている写真そっくりそのままだ。大正11年完成の建物である。
なお、当ページには「日光博覧会」のポスターも掲載されている。
十月二十九日から十一月二十日まで大阪で「日光」が見られる
世界に誇る日本一の結構・美観
日光東照宮大模型陳列(実景十分の一大)
古式神輿渡御祭行列人形(二千三百余人の大行列)
メダルの裏面には、上部に左甚五郎の「眠り猫」が描かれている。
そして以下の文字が見える。
日光博覧会
主催 美神会
後援 大阪府教育課 大阪市教育部 大阪毎日新聞社
会期 昭和二年 自十月二十九日 至十一月二十日
会場 大阪高島屋
「造幣局製」刻印
今から99年前の大阪の百貨店で、なぜ日光の博覧会が開催されたのか。それはいったいどのような博覧会であったのか。いろいろ疑問がわくところである。
参考になった資料は、「高島屋百年史」(昭和16年3月発行)であった。
大阪長堀店に於ける「日光博覧会」の項目に、次のような記述がある。
昭和二年十月二十九日より十一月二十日まで、長堀店に於て開催の「日光博覧会」は、空前絶後とも云ふべき大成功を収め、洵(まこと)に特筆大書すべきものなり。元来此の博覧会は仙台市濱田長藏氏を会長とする美神会が、敬神思想の涵養と美術歴史、時代風俗の研究資料として二十余箇年の年月と五十余万円の巨費を投じ、今左甚五郎の称ある彫刻士長谷川喜十郎氏に委嘱し、前年の春漸く完成したる日光山東照宮の全景の大模型と、古式人形制作の第一人者佐野楽翁、齊部山氏が心血を注げる神輿渡御行列人形二千有余を陳列したるものにて、同年の春東京国技館に於て開かれたるものを大阪長堀店に於て再び展観したるものなり。
此の催しの経緯に就いては最初甲乙議論対立し容易に決せざりしが、遂に左の三つの理由に依りて否決せられたり。即ち
一、美神会からの模型の賃借料が当時として莫大なりしこと
二、陳列場所が余り多くを要したること。
三、豊太閤の大阪にと徳川家康を持ち来ることは人気の上に於て如何
との反対論ありしなり。
然るに同年夏此の日光大模型が京都の博覧会に飾られたるを見たる社長は、これを大阪店にて催してはとの提案ありたる為め、主唱者川勝宣伝部長は大に力を得、遂に一部の反対を押し切って実行するに至りたり。
賃借料や展示スパース上の懸念のほか、「秀吉の大阪の地に、家康を持ってくるのはいかがなものか」、という反対論があったというのがおもしろい。
まあ、一旦は否決されたものの、社長の鶴の一声で実施が決定し、後援の毎日新聞の宣伝もあって、結果的には大盛況となった。
斯くて十月二十九日開催するや、日に日に観覧者多きを加え、「日光見ずして結構いふな」の古諺通り、実に観覧者の殺到名状すべからざる盛況を停止最初一日三、四万人の入場者は忽ちの間に七、八万となり、十万、十五万となり、遂には一日の入場者二十幾万人と云ふ数に達し、長堀橋の北詰よりさらに東に折れて長蛇の列は三四町にも及びたり。之が為め交通巡査多数警戒に当てられたり。当時の第四師団長菱刈閣下その他名士より激賞を蒙る。
尚観覧者の便利を慮りご老人サービス、ご家族サービス、御婦人サービスなど営業時間以外に於て早朝又夜間などに特別観覧に供したり。
「長蛇の列は三四丁」というから、300~400mにもなる。3週間の会期中の来館者は150万人にのぼったという。この盛況に種々の特別サービスを実施したというのがいかにも当時の百貨店らしい感じを受ける。
さらに驚いたのは、このメダルが写真付きで「百年史」に掲載されていたことだ。
因みに茲に掲ぐる日光博「メタル」は此の未曽有の盛況を長く記念せん為め、社長が特に当時の社員に頒ちたるものにて題簽(だいせん※)は社長の揮毫に成り、大阪造幣局の制作に係るものなり。
当初反対意見としてあった「高すぎる東照宮模型の賃借料」というのは、当時の金で5千円であったそうだ。これに対し、
このメダルは博覧会の閉会後、大成功を祝って全社員に配布された。
昔の金額を現在の価値に直すというのは、なかなか難しい。企業物価指数、消費者物価指数、初任給など、どれを基準にするかで大きく変わってしまうためだ。まあざっくり1千万円くらい、と感覚的にとらえておこう。
実施反対論を押し切って実施にこぎつけた新社長にしてみれば、大いに安堵し面目を保ったであろう。この記念メダルの製作も社長の発案だった。こういう記念品は、開催前に作成するのが普通のような気がするが、開催後に作成したことからも社長の得意が現れているように思う。
また、非常にうがった見方をすれば、百年史にあえて開催反対論などを記載したのも、社長の功績を際立たせるためではないかという気もするが、いかがであろうか。
この模型を作成した「美神会」という組織の正体がよくわからなかったが、十分の一スケールで作られた「超精密東照宮模型」は、数奇な運命をたどった。
この模型が完成したのは大正15年、依頼主であった美神会会長の濱田長蔵の住む仙台で披露された。この人気が高かったため、京都をはじめ、東京、金沢、大阪と全国を巡った。大阪巡回というのは、この高島屋の日光博を指している。どこでも人気を博したというから、よほど素晴らしい作品であったのだろう。
昭和6年、浜田長蔵が死去した後、戦争が激しくなってくると、模型は仙台でしばらく保管されたままとなった。そして戦後、再び世に出ることになる。昭和26年には岡山市での日光展で再び脚光を浴びた後は、遂に太平洋を渡った。昭和28年にはサンフランシスコの貿易博に出展、昭和33年に一時帰国するも、またアメリカに渡りホノルル、ポートランド、ニューヨークなど全米各地の博覧会等に出展された。この模型の所有者であるジャック・ウジモリ氏(日系ハワイ二世)の手により、天台宗ハワイ別院に保管された。
昭和61年、岡崎市長がホノルルに渡り、所有者のウジモリ氏と面会、昭和62年の岡崎市で開催された「葵博」に出展されることとなった。30年ぶりの帰国となった。すでに製作から60年以上を経過しており、傷みが目立っていたことから京都で補修作業が行われ、出展に臨んだ。
(岡崎市制70周年記念事業記録誌「写真が語るあの時、この時」より)
岡崎市と言えば、徳川家康の誕生、幼少期を過ごした地。この地で開かれる博覧会には確かにふさわしいと言えるだろう。なお、この岡崎市の葵博、総合プロデューサーは漫画家の手塚治虫が務めた。目玉展示物は2つあって、ひとつがこの東照宮模型、もうひとつがIMAXシアターの映像(宇宙のドラマと宇宙飛行士の生活)であったという。
当時の葵博の平面図を見ると、メインエリアの一画に丸く並んだパビリオンの中に「東照宮館」が見える。
葵博閉幕後、東照宮模型がどうなったかは不明である。詳しく調べればわかるはずだが、またハワイに帰ったのであろうか。この種のモノは、戦火で失われたしまったパターンが非常に多く、この模型が無事に戦後も大切に保管されており、修復を経て長く各地で活躍したたことには何かほっとするものを感じた。
なお、 高島屋長堀店は、大正11年当時大阪の最高級メインストリートであった堺筋に面して建てられた近代ゴシック建築の大型店舗であった。昭和14年に現在の難波の店舗へ統合する形で閉鎖された。建物はのちに他社へ譲渡され現在は残っていないとのことである。
このメダルを調べていて、東照宮模型をめぐる意外な事実が分かったのが非常におもしろかった。
また、高島屋で開催された東照宮模型の展示会に「日光博覧会」というあたりに、私は時代性を感じたものだ。単なる展示会ではなく、「博覧会」、しかも百貨店が開催して大成功を収めたのである。当時の博覧会や百貨店の在り方を感じることができる。
百貨店は単なる大きな小売店ではなく、文化の発信源としての位置を占めていたことが伺える。
長い時代を経て多くの人目を驚かせてきた東照宮模型。多くの名工が20年以上の時間をかけて作ったというだけあって相当の傑作であったことが伺える。今もどこかにあるならぜひ見てみたいものだと思う。









