徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

高島屋「日光博覧会」記念メダル(昭和2年) ~百貨店の文化発信: 日光博覧会と東照宮模型~

「日光博覧会」メダル(昭和2年)

表面には近代的ビルディング。裏面を見ると「日光博覧会」とある。昭和2年に大阪高島屋で開催された日光博覧会の記念品とわかる。

メダルを子細に見てみよう。

表のビルディングは、高島屋大阪長堀店が忠実に描かれたものだ。高島屋の公式サイト「高島屋史料館」に載っている写真そっくりそのままだ。大正11年完成の建物である。

なお、当ページには「日光博覧会」のポスターも掲載されている。

 ポスターいわく、

十月二十九日から十一月二十日まで大阪で「日光」が見られる

世界に誇る日本一の結構・美観

日光東照宮大模型陳列(実景十分の一大)

古式神輿渡御祭行列人形(二千三百余人の大行列)

www.takashimaya.co.jp

  

メダルの裏面には、上部に左甚五郎の「眠り猫」が描かれている。

そして以下の文字が見える。

日光博覧会

主催 美神会

後援 大阪府教育課 大阪市教育部 大阪毎日新聞社

会期 昭和二年 自十月二十九日 至十一月二十日

会場 大阪高島屋

「造幣局製」刻印

 

今から99年前の大阪の百貨店で、なぜ日光の博覧会が開催されたのか。それはいったいどのような博覧会であったのか。いろいろ疑問がわくところである。

 

参考になった資料は、「高島屋百年史」(昭和163月発行)であった。

大阪長堀店に於ける「日光博覧会」の項目に、次のような記述がある。

昭和二年十月二十九日より十一月二十日まで、長堀店に於て開催の「日光博覧会」は、空前絶後とも云ふべき大成功を収め、洵(まこと)に特筆大書すべきものなり。元来此の博覧会は仙台市濱田長藏氏を会長とする美神会が、敬神思想の涵養と美術歴史、時代風俗の研究資料として二十余箇年の年月と五十余万円の巨費を投じ、今左甚五郎の称ある彫刻士長谷川喜十郎氏に委嘱し、前年の春漸く完成したる日光山東照宮の全景の大模型と、古式人形制作の第一人者佐野楽翁、齊部山氏が心血を注げる神輿渡御行列人形二千有余を陳列したるものにて、同年の春東京国技館に於て開かれたるものを大阪長堀店に於て再び展観したるものなり。

 だが、この催しの決定には若干の紆余曲折があったようだ。

此の催しの経緯に就いては最初甲乙議論対立し容易に決せざりしが、遂に左の三つの理由に依りて否決せられたり。即ち

一、美神会からの模型の賃借料が当時として莫大なりしこと

二、陳列場所が余り多くを要したること。

三、豊太閤の大阪にと徳川家康を持ち来ることは人気の上に於て如何

との反対論ありしなり。

然るに同年夏此の日光大模型が京都の博覧会に飾られたるを見たる社長は、これを大阪店にて催してはとの提案ありたる為め、主唱者川勝宣伝部長は大に力を得、遂に一部の反対を押し切って実行するに至りたり。

賃借料や展示スパース上の懸念のほか、「秀吉の大阪の地に、家康を持ってくるのはいかがなものか」、という反対論があったというのがおもしろい。

まあ、一旦は否決されたものの、社長の鶴の一声で実施が決定し、後援の毎日新聞の宣伝もあって、結果的には大盛況となった。

斯くて十月二十九日開催するや、日に日に観覧者多きを加え、「日光見ずして結構いふな」の古諺通り、実に観覧者の殺到名状すべからざる盛況を停止最初一日三、四万人の入場者は忽ちの間に七、八万となり、十万、十五万となり、遂には一日の入場者二十幾万人と云ふ数に達し、長堀橋の北詰よりさらに東に折れて長蛇の列は三四町にも及びたり。之が為め交通巡査多数警戒に当てられたり。当時の第四師団長菱刈閣下その他名士より激賞を蒙る。

尚観覧者の便利を慮りご老人サービス、ご家族サービス、御婦人サービスなど営業時間以外に於て早朝又夜間などに特別観覧に供したり。

長蛇の列は三四丁」というから、300~400mにもなる。3週間の会期中の来館者は150万人にのぼったという。この盛況に種々の特別サービスを実施したというのがいかにも当時の百貨店らしい感じを受ける。

 

さらに驚いたのは、このメダルが写真付きで「百年史」に掲載されていたことだ。

因みに茲に掲ぐる日光博「メタル」は此の未曽有の盛況を長く記念せん為め、社長が特に当時の社員に頒ちたるものにて題簽(だいせん※)は社長の揮毫に成り、大阪造幣局の制作に係るものなり。

 (※和本などの表紙に貼る細長いラベルのこと)

  

当初反対意見としてあった「高すぎる東照宮模型の賃借料」というのは、当時の金で5千円であったそうだ。これに対し、就任したばかりの二代社長飯田新七が、予算が足りなければ自分で奮発するから展覧会を決行せよとの鶴の一声で開催が決まったのだ。

このメダルは博覧会の閉会後、大成功を祝って全社員に配布された。

昔の金額を現在の価値に直すというのは、なかなか難しい。企業物価指数、消費者物価指数、初任給など、どれを基準にするかで大きく変わってしまうためだ。まあざっくり1千万円くらい、と感覚的にとらえておこう。

 余りの人気ぶりに延長論も起こったという(が、延期はされず会期の変更はなかった)。

実施反対論を押し切って実施にこぎつけた新社長にしてみれば、大いに安堵し面目を保ったであろう。この記念メダルの製作も社長の発案だった。こういう記念品は、開催前に作成するのが普通のような気がするが、開催後に作成したことからも社長の得意が現れているように思う。

また、非常にうがった見方をすれば、百年史にあえて開催反対論などを記載したのも、社長の功績を際立たせるためではないかという気もするが、いかがであろうか。

 

この模型を作成した「美神会」という組織の正体がよくわからなかったが、十分の一スケールで作られた「超精密東照宮模型」は、数奇な運命をたどった。

この模型が完成したのは大正15年、依頼主であった美神会会長の濱田長蔵の住む仙台で披露された。この人気が高かったため、京都をはじめ、東京、金沢、大阪と全国を巡った。大阪巡回というのは、この高島屋の日光博を指している。どこでも人気を博したというから、よほど素晴らしい作品であったのだろう。

昭和6年、浜田長蔵が死去した後、戦争が激しくなってくると、模型は仙台でしばらく保管されたままとなった。そして戦後、再び世に出ることになる。昭和26年には岡山市での日光展で再び脚光を浴びた後は、遂に太平洋を渡った。昭和28年にはサンフランシスコの貿易博に出展、昭和33年に一時帰国するも、またアメリカに渡りホノルル、ポートランド、ニューヨークなど全米各地の博覧会等に出展された。この模型の所有者であるジャック・ウジモリ氏(日系ハワイ二世)の手により、天台宗ハワイ別院に保管された。

昭和61年、岡崎市長がホノルルに渡り、所有者のウジモリ氏と面会、昭和62年の岡崎市で開催された「葵博」に出展されることとなった。30年ぶりの帰国となった。すでに製作から60年以上を経過しており、傷みが目立っていたことから京都で補修作業が行われ、出展に臨んだ。

(岡崎市制70周年記念事業記録誌「写真が語るあの時、この時」より)

岡崎市と言えば、徳川家康の誕生、幼少期を過ごした地。この地で開かれる博覧会には確かにふさわしいと言えるだろう。なお、この岡崎市の葵博、総合プロデューサーは漫画家の手塚治虫が務めた。目玉展示物は2つあって、ひとつがこの東照宮模型、もうひとつがIMAXシアターの映像(宇宙のドラマと宇宙飛行士の生活)であったという。

当時の葵博の平面図を見ると、メインエリアの一画に丸く並んだパビリオンの中に「東照宮館」が見える。

葵博閉幕後、東照宮模型がどうなったかは不明である。詳しく調べればわかるはずだが、またハワイに帰ったのであろうか。この種のモノは、戦火で失われたしまったパターンが非常に多く、この模型が無事に戦後も大切に保管されており、修復を経て長く各地で活躍したたことには何かほっとするものを感じた

 

なお、 高島屋長堀店は、大正11年当時大阪の最高級メインストリートであった堺筋に面して建てられた近代ゴシック建築の大型店舗であった。昭和14年に現在の難波の店舗へ統合する形で閉鎖された。建物はのちに他社へ譲渡され現在は残っていないとのことである。

 

このメダルを調べていて、東照宮模型をめぐる意外な事実が分かったのが非常におもしろかった。

また、高島屋で開催された東照宮模型の展示会に「日光博覧会」というあたりに、私は時代性を感じたものだ。単なる展示会ではなく、「博覧会」、しかも百貨店が開催して大成功を収めたのである。当時の博覧会や百貨店の在り方を感じることができる。

百貨店は単なる大きな小売店ではなく、文化の発信源としての位置を占めていたことが伺える。

長い時代を経て多くの人目を驚かせてきた東照宮模型。多くの名工が20年以上の時間をかけて作ったというだけあって相当の傑作であったことが伺える。今もどこかにあるならぜひ見てみたいものだと思う。

「始政五周年」バッジの正体の推理

「始政五周年」バッジ

このバッジは、かなり昔に正体がわからないまま入手したものだ。

銀製で、大きさは22㎜。小さいが、ツクリはよい。五色の七宝を使い、裏面の山と楼門の刻印も優れている。今は失われているが、元はこの上部にピンが取り付けられていたのだろう。

まず、入手時には中央にある5文字の篆書体の漢字が読めなかった。よくよく見れば、「始政五周年」だ。

字面から考えれば、なんらかの政権の成立5周年の記念品であろう、とまずは想像した(当たり前だ)。

文字の周囲に配された動物が干支であることは明らかだった。「5周年」と「5つの干支動物」を対応させていることはすぐわかる。

このバッジの正体は何であろう?

ここで私は考えた。干支の動物を見てみれば、「イノシシ、ネズミ、ウシ、トラ、ウサギ」。亥年がスタートの年になっているとわかる。

さらに、このバッジのツクリを見れば、戦前の品であることは明らかだ。

19末~20世紀前半の亥年は、1899年、1911年、1923年、1935年

私は、このいずれかの年に誕生した政権を指すのだろう、と考えた。これが間違いであった。

結論からすると、この考えが「算数」としてまず間違いだった。どういうことかご理解いただけるだろうか。

バッジには、「五周年」と明記してある。そして、5つの干支が描かれている。初めの干支は「亥(イノシシ)」。

つまり、「政権成立年が亥年」なのではなく、「成立1周年の年が亥年」だったのである。「数え年と満年齢」のズレであった。このバッジが作られた時点が卯年なら、「真の政権成立年」は亥年ではなく、戌年でなければならない。

改めて、19末~20世紀前半の戌年は、1898年,1910年、1922年、1934年

このいずれかの年の歴史的な事件とは何であろうか?

ここで、もうひとつヒントは、バッジ裏面の図柄である。山を背景に巨大な楼門が描かれている。中国だろうか?まさに亥年に発生した「辛亥革命」は1911年。中華民国の成立は1912年。残念、ちょっと合わない。

 

もう明らかだと思うので答えを言ってしまうと、これは朝鮮である。

この建造物はソウルの景福宮の光化門、後ろの山は北岳山。この山と楼門のセットはかなりはっきり描かれていて間違いようがない。

とすれば「卯年の歴史的事件」がなんであるか、もう明らかであろう。

1910年8月の「日韓併合」である。

この5年後、1915年に行われた最大の記念行事が、「始政五年記念朝鮮物産共進会」であった。「朝鮮版内国勧業博覧会」ともいうべき巨大イベントであった。

この共進会は景福宮を会場に開催されたことからも、光化門が描かれたこのバッジの正体は「始政五年記念朝鮮物産共進会」の記念品であろうと推察している。

 

私はバッジの正体を明らかにするため、そこに記された文字やデザインを頼りに推理する。正体に辿り着けていないモノも、実際には多い。

このバッジの場合、「始政五周年」の文字と共に、「干支」が描かれていたことで逆にミスリードされてしまったという、なかなか珍しい事例だった。逆に、干支が描かれていなければ、もっと早く真相にたどり着けたのではないかと思う。「亥年に成立した政権はなにか」と狙いを絞ってしまったことで、日韓併合は除外され、私の推理は正解から離れてしまったのだ。

これを書いているときも、干支と満年齢と数え年の違いが混乱してきたので、私は対応表を作って整理したものだ。

あと一つ、このブログをご覧の方はすでにお察しかもしれないが、私は訪中経験はそれなりにあっても実は韓国には一度も行ったことがなく、その方面の知識も疎い。

詳しい人なら、「始政」のワードだけで、朝鮮併合をパッと連想できるかもしれない。どうだろうか?

1940年幻のオリンピック「第12回東京大会開催決定記念バッジ」(1936年)

「第12回国際オリムピック大会東京開催決定記念」バッジ(左側)

このブログではオリンピックバッジネタを何度も取り上げてきたが、私が興味をひかれているのは1940年に開催が予定されていた「幻の東京大会」である。

かつて、2020年東京オリンピックの前に、オリンピックミュージアムで見た当時の品々についてこのブログで紹介したことがある。

badge-culture.hatenablog.com

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/b/badge_culture/20190919/20190919205747.jpg

(オリンピックミュージアムに展示されていた同じバッジ)

 

講義録一ケ月以上申し込みの方に対し銀台五色豪華美麗オリンピックバンチを贈呈します。」とあることから、このバッジは何かの雑誌の景品なのであろう。

なお、この紙には「オリンピックバンチ」とあるが、これはもちろん「バッジ」の誤植であろう。バッジは幅28㎜ほどの大きさで、比較的小さく簡易なツクリ。このバッジを「豪華美麗」と見るかどうかは意見の分かれるところであろう。

オリンピックミュージアムの展示品は保存程度がよく銀メッキがよく残っているが、私の入手した実物はメッキが剥げ、五輪や国旗の塗料も剥落が目立つ。

バッジ裏面には、図の通り「第十二回国際オリムピック大会東京開催決定記念」の文字がある。

さて、冒頭に示した写真の右側のバッジのとおり、この記念バッジにはそっくりのバッジがあり、こちらには「斉藤楽器店」とある。このバッジには裏面に文字はない。明らかに、開催決定記念バッジの模倣品、つまりパクリバッジであろう。斉藤楽器店の詳細は不明である。

もちろん、左側の開催記念バッジにしても、どこの雑誌かは不明だが、現代であればオリンピックのパートナー企業でもない限り、勝手に「オリンピック記念品」を作成することは問題だ。昔はおおらかだったのである。

1940年の第12回オリンピックの開催地が決まったのは、1936年7月、ベルリンでのIOC総会であった。アジア初のオリンピック開催決定に日本は沸き立った。当時作られた記念品の数々が、国内の盛り上がりを示しているようである。「斉藤楽器店」バッジも、この盛り上がりの中で作られたのであろう。

だが、その後日本は戦争への道を突き進み、オリンピック開催どころではなくなっていく。国内世情もオリンピックへの関心は低下し、冷淡になっていく。

大会委員会は、それでもなんとか開催を実現させようと涙ぐましい努力を続けたがついに断念。1938年に正式に開催権を返上する。誘致合戦で東京に負けたヘルシンキでの開催が代わりに決まったが、結局第二次大戦勃発でこれも実現しなかった。

もしかして、スウェーデンにも幻のオリンピックバッジがあるのだろうか。私はまだ見たことがないけれど。

 

女子体力章(中級・上級)(昭和19年制定)

女子体力章(中級章、上級章、副章付き上級章)

以前、「体力章」について記事を載せたことがあった。今回は「女子体力章」を取り上げる。女子体力章は、戦争末期の昭和19年に制定されたもので、実施期間が短く、男子の「体力章」に比べると格段に数が少ない(男子体力章検定は昭和14年制定)。

しかも物資不足を反映してか、女子体力章は紙と布製で、保存性も低く、現存数が少ない一因となっているであろう。

女子体力章検定とはいかなるものであったか。

「女子体力章検定の実際」(大日本体育会陸上戦技部指導委員長 上野徳太郎著、昭和19年9月)

 大東亜の平和のために、ひいては世界平和のたまに決然と起つた我々日本人は、強固な精神と頑強な身体を最も必要としてをります。
それは男子ばかりに叫ばれるものではなく、女子青年にもまた叫ばれなければなりません。

 女子体力章検定の制度は、皇国の重大事に処しうる日本女性の育成のために設けられました。

 そしてそれは、昭和17年に試案的に行はれ、昭和18年度から正式に実施されることになつたのであります。

そして目的に言う。

 日本は今強壮な男子を絶対に必要としてゐるが、同時に健康な強い女性を要求してゐます。強壮な母なくしては立派な国民を得ることが出来ないのであり、そしてその健康な強い母を得るのには、その若い時代にのみ作られるものなのであります。

 国家としては、一般女性の健康増進、体力向上を奨励しなければならないと同時に、これについて深い考へを及ぼさなければならないのであります。特に女子青年については、興味と共に身体鍛錬への強い思慕を向けさせるべく、ここに女子体力章検定の制度は生まれたのであります。

 女子青年の身体の運動能力について、一定の標準を設け、その標準に達してゐるものを、一人前の女性として公認するものであり、その優れた体力の証明として与へられるのが、この検定章であります。国家後任の、健康な体力の所有者である女子体力章検定の合格者は、尊重されなければならないと同時に、時代の優良な国民を生み出す立派な母体であることを自覚しなければなりません。

 国家永遠の栄へは、じつにこのやうな立派な体力を持つてゐる女子に負うところが極めて大きいのであります。女子体力章検定は、かくして国家にとつて重大な意義を持つものであります。

 優良な国民の一人となり、報国の誠を盡すための身体鍛錬は、以上のごとく見てきますと、女子青年にとっては決して単なる私ごとではないのであり、女子体力章検定に応じるがための日々の鍛錬こそ、報国第一歩の生活と言はなければならないのであります。

 女子体力章検定の目的は、日本女子に対して、その心構へ、その覚悟を求めているものとみて差し支えないのであります。

現代のジェンダー主流化の感覚からすると相当の違和感があるが、この時代はこれが当たり前の感覚だったのである。

スポーツも芸術も、国民が一丸となって聖戦勝利を勝ち取る鍛錬の手段であった。

「強壮な母なくしては立派な国民を得ることが出来ない」「身体鍛錬こそ報国の第一歩」という断じる筆者を、現代の価値観から断罪することはできないであろう。

 

検定の内容を具体的に見ていこう。

対象者は、数え年15歳から21歳までの女子。ただし、22歳以上でも希望する者は検定を受けてよいことになっていた。

基礎検定種目は5種目で、①千米速行、②縄跳、③短棒投、④運搬、⑤体操

このほかに特殊検定種目として2種目①水泳と②行軍があった。

受験者は、基礎検定種目の全てを受ける必要があり、特殊検定種目は希望者のみ受けることができた。

基礎検定種目は、すべての種目が各級の合格水準に達している必要があった。仮に4種目が上級水準をクリアしていても、1種目でも初級水準であれば、初級合格となってしまうのである。

【①千米速行】4分30秒以内 /中級:5分以内 /初級:5分30秒以内
【②縄跳】上級:1分20秒以上 /中級:1分以上 /初級:40秒以上
【③短棒投】上級:24米以上 /中級:20米以上 /初級:16米以上
【④運搬(100m/16㎏】上級:24秒以内 /中級:26秒以内 /初級:29秒以内
【⑤体操】上級:大日本女子青年体操 /中級:大日本国民体操 /初級:国民保険体操第二

男子種目と比較しながら、各種目を細かく見ていこう。

まず男子種目に近い種目から。

【①千米速行】は、要するに1000m走だ。男子での2000m走に相当する種目である。
【③短棒投】は、男子での「手榴弾投」に類似する。「手榴弾(模擬弾)」の代わりに、リレーで使うバトンのような形状の棒を投げるのである。具体的には、長さ30㎝、太さ3.5~4㎝、重さ290~310gの木製棒を投擲する。
【④運搬】は、男子では距離と時間が決まっており(50mを15秒以内で走る)、級によって40~60㎏と重さが異なる。
女子では、片手で8kgの重りを両手にもって、50mを折り返し100mを走って時間を計測するのである。

 

【②縄跳】と【⑤体操】は、類似する種目が男子にはない。
【②縄跳】は、普通の縄跳びで耐久時間を計る種目である。ただし、縄の一廻旋につき両足跳躍1回と決められている。特に跳ぶ速さに決まりはない。

【⑤体操】は、大日本女子青年体操、大日本国民体操、国民保険体操第二などを行うもので、まあ要するに現在の「ラジオ体操」のような体操があったのである。

「女子体力章検定の実際」でも、

体操の検定は非常に緩やかなものであつて、目的とする級の体操が、一通りできればよいという程度のものであります。

と書かれており、この体操が一番クリアしやすそうな種目である。

そして、さらに特殊検定種目

【①水泳】は、男子にもある種目である。合格基準は、200m完泳を基本とし、または7分間泳(耐久泳)か、50mを1分25秒以内(泳速)でも可となっている。

【②行軍】これは男子種目にはない。合格基準は、4キロのものを負担して距離24㎞を5時間以内で踏破することである。

行軍についてもう少し詳しく記載する。

個人または団体で行われ、行軍路は正確に距離を計測した道路などが用いられ、比較的平坦な道路で坂などもあまりなく受験者に危険や妨害がないようなところであるのはもちろんのこと、一般交通に対しても妨害がないような道路がよく、12㎞の地点を往復する方法が便利なやり方であると上記書には述べられている。

また、受験者は5㎞ごとに設けられている関門を必ず通過しなければならならず、通過票を与えるなど通過証明が行われることになっていた。

正直、全種目中一番厳しそうなのが行軍のような気がするがどうだろう。やや早めに歩けばクリアできるスピードだが、なにせ24㎞である。考えただけでも疲れる。

「官報第5107号」(昭和19年1月25日)「厚生省告示第8号」より

さて、長くなったがバッジである。

「官報第5107号」(昭和19年1月25日)「厚生省告示第8号」に、

女子体力章検定ニ合格シタルモノニ対シ授与スベキ女子体力章ノ図式左ノ如シ

として、女子体力章の図が掲示されている。

初級、中級、上級の3種がある。

大きさ、デザインは3種とも同じ。違うのは色で、中央の神鏡の色が、初級は白、中級は銀、上級は金となっている。
この少し不思議なデザインも、官報には説明がある。

中央は鏡(八稜の神鏡型)、周りは「管玉、勾玉、丸玉」とある。古代日本の装飾品からとられたデザインである。このあたりにも、当時の国粋主義的志向がうかがえる。

さらに、特殊種目に合格すると、副章、つまり小さなリボンが付随する。この「副章」は男子体力章でも、「水泳」の副章がある。以前投稿した記事を参照してほしい。

badge-culture.hatenablog.com

 

官報の図にもあるとおり、女子体力章の場合、水泳種目に合格すると「青竹色」行軍に合格すると「麹塵色」の副章をつける。

さて、「青竹色」はともかく、「麹塵色」というのがどんな色かわかるであろうか。そもそもこの漢字はなんと読んだらよいのか。

調べてみると「麹塵色」は「きくじんいろ」と読み、「コウジカビのようなくすんだ黄緑色」なのだそうだ。緑カビの色を指すのである。

「青竹色」は水泳のイメージから水の色を、「麹塵色」は行軍のイメージから山野の色として採用したものではないかと思われるが、なんとも雅な名称であることだ。きっと現代なら、単に「水色」「緑色」とうすっぺらな表現しかしないだろう。

 

さて、冒頭に掲載した実物を見てみよう。

基礎検定種目としては2種。中級1つと上級2つだ。上級一つの下部には、行軍の副章がつけられている。このリボンの色が「麹塵色」である。

もしこの上級章の上部に「青竹色」の副章が付けば、それが女子体力章の最上級形態ということになる。

私の印象では、女子体力章は、これまで初級のものを見たことがない気がする。男子は逆で、上級バッジの方がレアではないか。

なぜかというと、各種目の合格水準が、女子の方が男子に比べるとハードルが低そうだからという気がする。例えば「体操」などは、ある程度練習して動作を覚えていればクリアできるであろう。

男子の各種目が、かなりの筋力や持久力を要する基準になっているのと比べて、女子体力章は、検定の設定目的自体が男子とは異なるのである。上記の通り、

国家としては、一般女性の健康増進、体力向上を奨励しなければならないと同時に、これについて深い考へを及ぼさなければならないのであります。特に女子青年については、興味と共に身体鍛錬への強い思慕を向けさせるべく、ここに女子体力章検定の制度は生まれたのであります。

というのが、女子検定の目的なのである。前線で戦う戦士を育成する目的の男子検定とは異なるのは当然であろう。

 

この副章付き上級章を獲得した少女も、果敢に検定に挑み、見事合格したのである。戦争最末期の昭和19~20年、彼女はいったいどのような行軍路24㎞を走破したのであろう。意外に楽しく友達とおしゃべりでもしながら歩いたのかもしれないなどと想像する。

果たしてこの女子体力章検定、現代の女子高生にこの検定にトライさせたら、どのような結果になるであろうか。ちょっと気になるところではある。

 

大日本神農会 会員章

大日本神農会 会員章

今回は、謎バッジの正体判明、の会である。
画像は八稜の神鏡型のバッジで、緑路白、青の七宝で彩られている。
中央には「神農」。裏面には「大日本神農会」とある。

「大日本神農会」、と組織名が明示されているので正体を探すのは容易であった。いわゆる国粋主義団体の一種らしい、ということがすぐわかった。要は右翼団体である。

これまで本ブログでは大正から昭和初期の労働運動に係るバッジを紹介してきた。一方、このころには国粋団体の運動も盛んで、様々なバッジが存在している。労働運動団体が「左側」なら、今回のは「右側」のバッジ紹介である。どちらも当時の日本社会を表す存在である。

が、この大日本神農会の正体は、もう少し意外であった。

香具師(やし)、つまり盛り場や祭りに露店を出して商売したり見世物興行をしたり、露天商の場所割り、世話をする人たちの組織であったのだ。テキヤともいう。

神農は、もちろん古代中国の三皇五帝の一人で、医療と農耕を人々に教えた神話的存在だ。これがなぜ香具師業界で守り本尊とされているか。香具師という名前からもわかるとおり、もともとは薬売りにあるからともいわれているようだ。
別の説もある。

神農皇帝は人間に商売の道を教えた半神である。しかも最初の商売たるや、青天井の下に開いた店で行われたのだ。即ち露店が商売の始まりなのである。香具師たるものが商売の多くが露店で営まれてきたので、その祖先崇拝の意味から守り本尊としてきた、という。さらに、香具師の親分のことも「神農さん」と呼ばれていたらしい。神農皇帝は人類に生活の安定を築いた。香具師の親分も自分の子文体の生活を安定させるために商売をなしうる場所を与えるということだ(「神農の由来(昭和5年)」)。

この組織の概要がわかる資料がないものかと渉猟していたところ、「本邦愛国運動団体総覧」(新興日本社社会運動調査部編、昭和11年)という書物を見つけた。ここには国粋団体が大量に掲載されており、この方面には全く詳しくないので、聞いたことがない団体がぞろぞろと列記されていて壮観だった。

大日本神農会のページには、次の記述がある。

綱領
一、皇室中心国民相愛ノ大義ニ起チテ諸制ヲ剺革シ陋習ヲ打破シ以テ社会平和ト国家興隆ニ資センコトヲ期ス
一、質実剛健ナル精神ト振興ヲ計ルコト
一、社会欠陥ノ改善不当ナル制度ノ改革促進ヲ図ルコト
一、博愛共有ノ大義ヲ宣揚スルコト
一、公衆慰安ノ大道ヲ展開スルコト

役員氏名
総裁 男爵中川良長、会頭 山田春雄、幹事長 小島政次郎、総務 松葉武 杉本勝之助 醍醐長吉 深沢次郎

参加者 三百人

沿革・一般状勢
国家主義運動ノ発展ニ一歩先ンジ、全国香具師一致結束ノ下ニ大正十五年十一月三日明治節ノ佳辰ヲ卜シテ生マレタ。 全国ニ散在スル香具師ヲ一致団結セシメ、混迷セル時代思想ヲ覚醒スル一大国家主義主体勢力トナシ、カネテ香具師ノ向上啓発ヲ目標ニ東京浅草ノ大親分山田春吉、遠山哲夫等ノ骨折リデ結成ヲ見るニ至ツタ。イフマデモナク神農会ノ名称ハ香具師ノ淵源タル神農皇帝ノ故事ニ因ンダモノデアル。 コノ部層ニ於テハ古来非常ニ義理堅ク、今モ尚昔ナガラノ伝統ニ生キ、仁義ノ仕方一ツデ日本全国ヲ廻リ歩クコトガ出来ルトイフ、普通人ノ社会デハ倣ヘナイ風習ガアル。
 彼ノ国粋会ト並ンデ我国国家主義陣営特異ノ存在デアル。

会は、会員十万人を称していた。会頭の山田春雄は、田中義一首相との関係が強かったともいわれる。

またこれに類した組織には、「昭和神農実業組合」というのもあり、こちらは組合員は3万人ともいわれた。

親分・子分の関係で成り立った任侠組織に近いもので、大日本神農会の創立宣言文には、「意地と張りと正義」、「不順なる労働争議の防圧」、「不貞なる社会主義者の全滅」、「営利のみに汲々たる悪商人に対し侠商の義気を発揮」、「万死以て報国の心情を」等の文言が並んだ。

だが、興味深いのは、これらに先んじて、すでに大正13年に「全国行商人先駆者同盟」が結成され、社会主義運動が展開されていたことだ。支部が全国各地に作られ、行商人の地位向上、啓蒙運動を展開、法律・社会相談部を設けるなど会員との連帯を深める努力をしていたが、活動はもろくも行き詰まり挫折した。「先駆者同盟」からの離反者を吸収する形で大日本神農会は成立したのである。

イデオロギーによる同盟会員の横のつながりよりも、親分子分兄弟分の強固な義理関係の方が強かったともいえる(「やくざと日本人 : 日本的アウトローの系譜(猪野健治、1973年)」)

だが、先駆者同盟の活動がとん挫し、それに代わって右翼的全国組織が生まれたが、やはり早々にこれも立ち消えになったようだ。

各地方裁判所検事局の報告をまとめた「国家主義乃至国家社会主義団体輯覧」(昭和7年12月)では、大日本神農会の実態が記されていて興味深い。創立当初は盛んな活動を見せたものの、身も蓋もない姿が描かれている。

本会ハ所謂全国ノ香具師六十万ヲ糾合ストノ意気ヲ以テ組織セルモ事実ハ大正13年10月所謂スパイ事件ニテ失脚セル遠山哲夫ガ再起ヲ目的トシ香具師ノ親分山田春雄ト計リ大言壮語シテ設立シタルモノナルガ昭和2年12月頃マデハ相当ニ活動スルトコロアルモ其ノ後は殆ンド有名無実ノ状態ニアリ
現在ニ於テモ山田春雄方ニ於テ本会ノ看板ヲ掲出シ居ルモ実態トシテ見ルベキモノナシ

やはり、この業界の人を政治的に統合するのは、彼らの性向上も難しかったのでは、と思わせられる。
その意味でもなかなか興味深いバッジに思えてくる。

 

余談になるが、香具師と言えば、そのイメージ形成に大きく貢献したのが映画「男はつらいよ」の主人公、車寅次郎である。自由で楽天的でお人よし、だがどこか寂寥感も漂わせる中年男の姿は、多くの日本人の共感を呼んだ。

本邦愛国運動団体総覧」の「今モ尚昔ナガラノ伝統ニ生キ、仁義ノ仕方一ツデ日本全国ヲ廻リ歩クコトガ出来ルトイフ、普通人ノ社会デハ倣ヘナイ風習ガアル」という記述を読んだ瞬間、「男はつらいよ」のテーマソングの一節が脳裡に思い浮かんだ。

語りの部分にいう。

とかく 西に行きましても
東に行きましても
土地 土地のお兄貴さん お姐さんに
ごやっかいかけがちなる若造です
以後 見苦しき面体 お見知りおかれまして
向後万端ひきたって
よろしく おたのみ申します

 

ミラノ・コルティナオリンピックのマスコット「ティナ」バッジ

ミラノ・コルティナ大会マスコット「ティナ」バッジ

ニュースを見ていたら、今日、2026ミラノ・コルティナオリンピックの日本代表選手のパレードが日本橋で行われていた。以前も同じ場所でパレードをやっていたような気がするな。

いろいろ思い出すことがあったので、今回はいまさらながらミラノ・コルティナオリンピックのバッジネタにしてみようか。

ミラノ・コルティナ大会も閉幕からだいぶたった気がするが、あれから2か月か。

今回の大会では、日本チームは歴代最多24個のメダルを獲得したという。メダルの数を誇るのも競うのもかすかに違和感を持つものの、今から20年前、同じくイタリアで開催された2006年トリノ大会ではわずか日本の獲得メダルはわずか1つであったことを思うと、その差には改めて驚く。

さて、オリンピックといえば、今大会で話題になったのがマスコットだった。日本選手たちの間でもこのマスコットの人気が高く、表彰式ではメダルのリボンにマスコットのぬいぐるみをひっかけて見せるのが流行ったりした。確かにかわいい。

開催地イタリアでも大人気で、公式ショップではマスコットグッズが軒並み売り切れ、非常に入手困難だったという。

これが何かというと、アルプスの山に住むというオコジョとのことだ(イタチ科の動物だ)。オコジョは胴長で、冬毛と夏毛でまったく別の動物のように色違いとなる。白いのがオリンピックのマスコット「ティナ」。茶色のがパラリンピックのマスコット「ミロ」である。

www.olympics.com

今日はミラノ・コルティナオリンピックのマスコット、ティナのバッジを紹介しよう。

ティナとミロは異なる毛の色をしたきょうだいで、2026年に行われる冬季オリンピックとパラリンピックを代表するマスコットとなる。それぞれの名前は大会が開催される2つの都市、コルティナ(Cortina)とミラノ(Milano)の名前をもとに付けられた。

よく似たきょうだいだが、性格は少し異なる。オリンピックのマスコットであるティナは、ショーやコンサートに出かけるのが大好きなクリエイティブで堅実な性格。彼女は美しいものやそれが持つ変革の力に感動する心を持ち、彼女は「夢は大きく!」という言葉を体現している

(公式サイトより)

 

これを見て初めて知った。ティナは女性マスコットだったのか!

 

一方、今から20年前、同じイタリアで開催されたトリノオリンピック大会のマスコットは、なんというか相当疑問を感じる。時代のせいばかりではなく、歴代オリンピックのマスコットの中でも、控えめに言ってもかなりひどい気がする。

こちらが当時のマスコットバッジである。

トリノ大会のマスコット、ネーベとグリッツのバッジ

どういうマスコットかというと、

イタリア語で「ネーベ」は雪を意味し、「グリッツ」は氷を意味する「ギャッチョ」に由来します。

ネーベは雪玉、グリッツは角氷で、冬季オリンピックの成功に欠かせない要素を表すとともに、冬季競技を擬人化しています。曲線的な輪郭のネーベは調和とエレガントさを表し、衣装は赤。四角い形のグリッツはアスリートの力と強さを表し、衣装は青。

(公式サイト)

 

www.olympics.com

ネーベとグリッツは、よく見ると両方とも体に五輪マークがついているので、どちらかがパラリンピックマスコット、というわけではない。両方ともオリンピックマスコットである。

関係ないが、このマスコットを見ると、私はつい染色体を想像してしまう

このマスコットは、大会開幕の3年前に国際コンペが開始され、応募237作品の中かから選ばれたという。ほかの応募作がどんなだったのか気になるほどだ。

まあ、20年たってイタリアでもだいぶマスコットは洗練されてきたといえよう。たぶん。

次のオリンピックは2028年のロサンゼルス夏季大会。

トランプ政権下のアメリカで、果たしてどんなマスコットが登場するのであろうか。

昭和大礼 私服警官徽章3種(昭和3年)

私服警官徽章3種

今日は初夏を思わせる陽気の中、近所の公園ではわずかに残った桜が花吹雪を散らしていた。

ここには昭和大礼記念に植えられた桜もあって、ということはもうすぐ100年近くになるはずである。

大正天皇の崩御により、昭和時代が幕を開けた。喪が明けた昭和3年、即位御大典が行われた。一連の関連行事は多く、各地方でも祝賀行事が行われた。最も重要な儀式である即位礼は、昭和3年11月10日、京都御所で行われた。

国家的な大イベントであったため、徽章の分野でも昭和大礼に関するものはたくさん残されている。

今回のバッジもまさにそうで、丸型の桜のバッジ3種。裏面に「昭和大礼 警備」の文字がある。警備関係者用バッジであることは明らかだが、このバッジには色違いのモノがいくつか存在することに私は以前から気がついていた。

あまり気に留めていなかったが、最近その正体がわかったので、ここに紹介しておこう。

今回の資料は「昭和大礼京都府警備記録」。

ここには「交通遮断線内通行者標識」として、関係者の徽章関係の図が掲載されている。
大礼使徽章(甲乙丙丁戊の5ランク)、の報道機関や救護班の腕章、入場者証、自動車に付ける証票、出入用の門鑑、人力車用提灯に至るまで、様々な目印が使用されたことがわかる。セキュリティエリア内の人のチェックはこのようにして行われていたのだ。

この中に、「私服警官ノ徽章(金属製)」の図が載せられている。まさに今回のバッジである。

「昭和大礼京都府警備記録」より

この図によると、バッジの桜は、中央とそこから伸びる線が「赤色」、花弁は「淡紅色」(ただしこの図は矢印がどこを指しているのかわかりにくいところもある)。

そして花弁の周囲の色は、「緑色」、「白地」と「濃赤色」の3種があることがわかる。

白地ハ警務部員」、「濃赤色ハ情報部員ノ分」。「緑色」には何も書いていないが、その他一般警官が緑なのであろうか。

それから「金線 刑事部員ノ分」と記載があるが、これが実はよくわからない。矢印が指し示すところを見ると枠線部分のようにも見える。

ところが、今回紹介した3種のバッジは、経年劣化による表面変色をしょうじているものの、すべて金メッキが施されており、「金線」に該当するともいえる。ただそうすると、七宝色が示す所属と矛盾を生じるので、ということは、「金線」というのは全く別物の可能性が高いように思う。

まあこればかりは現物を見ないと何とも言えず、いずれ「金線というのはこのことを指しているのか!」という明確なバッジを発見しないとも限らず、今のところ結論は保留しておこう。

実は、現代の警察警備においても、「SPバッジ」など、バッジの色による識別というのは行われていて、この界隈の徽章文化の根深さを示しているようである。

 

これまで紹介してきた昭和大礼関係バッジは以下の通り。コレクション中にはまだまだあるので、これからもゆっくり紹介していこう。

(丁種大礼使徽章)

badge-culture.hatenablog.com

 

badge-culture.hatenablog.com

badge-culture.hatenablog.com