徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

東京勧業博覧会バッジ(明治40年、1907年)

東京勧業博覧会バッジ(明治40年、1907年)

関西大阪万博が開幕してもうすぐ1か月を迎える。当初の不評はどこへやら、開幕すればなんだかんだで盛り上がっているように見える。個人的に行く気には全くならないのだけど。

さて、日本での万国博覧会の初開催は、1970年の日本万国博覧会まで待たねばならないが、それ以前は「内国博覧会」が盛況を博していた。政府主催の博覧会は、初回となる内国勧業博覧会明治10年)から、第五回内国勧業博覧会明治36年)まで開催された。

明治40年第六回内国勧業博覧会も企画されていた。しかし、日露戦争(明治37~38年)の影響で延期を余儀なくされ、ついに中止が決定した。

それに代わり、東京府の主催で明治40年に実施されたのが「東京勧業博覧会」であった。開催場所は、またしても上野であった。

当時の「東京博覧会案内」の「博覧会の沿革」に次のようにある。

明治二十三年第三回内国勧業博覧会の上野公園に開かれしより以来、東京市はまたこの種の会を見ることなくして十有七年の長日月を経過したり、その間京都に第四回内国勧業博覧会あり、次いで大阪に第五回内国勧業博覧会ありしと雖も、東京市の有志者は之を以て未だ帝国の首都に於ける教育学芸の進歩、実業の発達等を十分に表彰する能はざるを遺憾とし博覧会の開設を唱道する者漸く多かりしが、日露の大戦争起こるに会して、一時中絶の姿となりしも、幸いに戦争は我国の勝利に帰し戦後経営すべき事業の増加と共に信仰の機運は諸方面よりこれが開設の必要を促すに至りたれば東京府会は三十八年十二月十一日を以て東京府下に製作品大共進会を開設するの意見書を決議し、之と殆ど相前後して東京勧業協会及び東京実業組合連合会より一の件議案を呈出せり。是に於て東京府庁は明治四十年三月二十日を以て博覧会を東京市上野公園に開くことに決せり。称して東京勧業博覧会といふ。

 

そうなのである。5回にわたる明治期の内国勧業博覧会は、第1~3回は東京上野で、第4回は京都で、第5回は大阪で開催された。

しかも、実施規模や入場者数は回を追うごとに拡大していった。特に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会は入場者数は実に530万人を超え、第1回の十倍以上となった。17年間もなかった東京では博覧会開催の機運が高まっていたのであろう。

会場は、三つの会場に分かれていた。上野の地理がわかる人は、ぜひ当時の状況を想像してほしい。上記の「東京博覧会案内」による。

第一会場は上野公園内帝国博物館前の竹台全部とその東なる凌雲院の北部及東部に亘れる東四軒寺跡を以て之に充て三会場の中央にありて面積最も広く(中略)、第二会場は不忍池の西北隅に在り旧馬見所跡を中心とし西は藍染川に東北は上野花園町に南は不忍池に限られ自然の管区をなす。第三会場は帝国博物館と帝国図書館との間なる茗荷山にあり。

結論から言うと、この東京勧業博覧会は成功裏に開催された。明治40年3月20日から7月31日の期間中、入場者数は680万人を数えた。

当時の絵葉書がこちら。

www.library.metro.tokyo.lg.jp


さて、バッジである。桜花に雪の結晶のようなマークがシンボルらしい。絵葉書にも同じ柄のスタンプが押されている。

銀質に白い七宝の、しっかりしたつくりのバッジである。この雪の結晶のようなマークは、おそらく「東」の字をデザイン化したものなのであろう。