徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

世界都市博覧会「東京大使バッジ」(1993~1995年製作?)

世界都市博覧会「東京大使」バッジ

現在開催中の大阪関西万博は、夏休みシーズンを迎えて活況を呈しているようだ。黒字化も確実視されているという。

これまで日本で開催された万博は、1970年大阪万博大阪府)、2005年の愛・地球博(愛知県)そして現在の2025年大阪・関西万博、の3回である。これ以外にも地方レベルの博覧会は数多く開催され、集客による経済効果や地方のPRなどを目的に実施された。

1996年に開催される予定であった「世界都市博覧会」もその一つである。

東京都知事であった鈴木俊一の強い意向もあり、1989年に博覧会開催の基本構想ができ、1993年に世界都市博覧会の開催を決定。開催期間は1996年3月24日〜10月13日とされた。東京テレポートタウンを中心とした東京臨海副都心全体であった。

この構想には、すでに先行事例があった。1981年に神戸市に開催されたポートピア’81(神戸ポートアイランド博覧会)である。神戸市では新たに埋立地として整備したポートアイランドに博覧会を開催し、臨海土地開発の加速に成功した。臨海副都心で開催予定であった世界都市博覧会も同様の目的を有していた。埋立地である夢洲を開催地として開催された2025年大阪関西万博も、同様のパターンといえる。

しかし、世界都市博覧会は、1993年に博覧会開催が決定された時点で、バブル経済の崩壊による影響で、すでに実現が危ぶまれていた。

1995年4月に実施された東京都知事選では、世界都市博覧会開催反対を公約に掲げた青島幸夫が当選。青島都知事は、都議会をはじめ多くの反対を押し切って、同年5月末、公約通り博覧会の中止を決定した。開催まですでに1年を切っていたタイミングである。影響は大きく、都は多額の賠償を払うこととなったが、中止は英断という評価もある。

博覧会という開発の起爆剤を失った後、臨海部の開発は民間主導で進み、フジテレビビルや東京ビッグサイトなどが整備された。

もし世界都市博覧会が予定通り開催されていたら、東京の姿はどうなっていただろうか、と想像する。

 

さて、画像のバッジは、マスコットキャラクター「東京大使」の形をした世界都市博覧会PR用バッジである。ネットで検索すると結構引っかかってくるので、おそらく大量に製作されたものであろう。

 

袋入りで、「東京大使 WORLD CITY EXPO TOKYO ’96 世界都市博覧会 1996.3.24~10.13」とある。男性の帽子は、都会のビルを模したものだろう。開催の前年に中止が決定したので、すでに多数の記念グッズが製作されていたのだ。

ついに日の目を見ることなく終わり、不遇のキャラクターと言わざるを得ない。