かつて、当ブログで毛沢東バッジに登場するマンゴーについて紹介したことがあって、「なんでマンゴーが毛沢東と一緒に登場するのかと疑問に思うムキもあろうかと思うが、その辺はそのうち改めて」と書いたきり気づけば15年以上が経過してしまった(2008-07-17登録)。
改めて、その宿題?を解決しておこう。
マンゴー崇拝ともいえる社会現象が中国で起きたのは、文化大革命真っ盛りの1968年8月の出来事がきっかけであった。
1968年4~7月頃、北京の清華大学で紅衛兵組織同士の内ゲバ騒動が過激化した(この辺の事情は、ウィリアム・ヒントンの「百日戦争―清華大学の文化大革命」に詳しい)。これを鎮圧するために、毛沢東は労働者を中心とした宣伝隊を組織し、派遣することを決定。3万人からなる労働者農民毛沢東思想宣伝隊が派遣され、事件を沈静化させた。最後は毛沢東が自ら紅衛兵組織のリーダーを招集し、騒動の沈静化を呼びかけた(7月28日)。これで事態は決定的に収束に向かうことになる。全国で吹き荒れた紅衛兵運動も、下火になる契機となった事件だった。
それから約1週間後、北京を訪問中のパキスタン外相は、毛沢東へのみやげにマンゴー(40個とされる)を贈った。毛沢東は、このマンゴーを清華大学事件で活躍した首都労働者農民毛沢東思想宣伝隊へ贈ることにした。8月5日のことであった。毛沢東から直々の贈り物に、宣伝隊は熱狂した。
中国でも南方ならマンゴーは生産されている。が、北京地方では当然作ることはできず、当時の状況からして一般的な中国人にとっては「珍しく貴重な果物」と映ったことだろう。仮に贈られたのがリンゴなどのより一般的な果実であればここまでの騒動にはならなかったのではないかと想像する。
贈られた思想宣伝隊のほうはといえば、せっかくいただいたのだからみんなでありがたく食べよう・・・とはならなかった。毛主席から温情深い贈り物を人民にお披露目しなくてはという熱情にかられたのか、このマンゴーを全国各地に贈ることにした。とはいえマンゴーは柔らかく、そんなに日持ちする果物ではない。マンゴーには防腐処理がほどこされたりしたともいう。
さて、こうして全国に散ったマンゴー。各地でマンゴーを迎えるパレードや展示会が開催されたりして、まるで毛沢東の分身を迎えるような熱狂を呼び起こした。
それだけではない。当時流行していた毛沢東バッジにもマンゴーが登場した。これ、知らない人にとってはなんで毛沢東バッジにマンゴー?と困惑することだろう。
コレクションの中から、マンゴーバッジを3点紹介する。
1点目は、ただ「マンゴー」としか書かれていない。皿に置かれたマンゴーがドン!と大きく描かれていて、かなり「変なデザイン」と思われてもしかたない。背景には地球儀が描かれ、国際主義を表現しているのであろう。
裏面には、「中国人民解放軍支左弁公室人武部」とある。
2点目は、労働者と農民がマンゴーを支え持つデザイン。マンゴーがかなり大きくデフォルメされている。背景には数多くの赤旗がはためく。
裏面には「蘇州革命委員会工人毛沢東思想宣伝隊」とある。
3点目は、「顆顆芒果温情似海」と毛沢東の温情の深さを賛美するスローガンが書かれている。皿に山盛りにされたマンゴーが描かれている。
裏面には「哈電机革委工代会」の文字があり、「ハルピン電機革命員会労働者代表会」の意であろう。
以前紹介した「夜光マンゴーバッジ」もこのシリーズである。その他にも多数のマンゴーバッジが私のコレクションにはある。毛沢東バッジの中でマンゴーバッジは割とメジャーな存在なのである。
今日から年末休みに入ったので、少し昔話を書いてみたい。
さて、私がマンゴーバッジに注目するようになったのは、ある「マンゴーグッズ」との出会いがきっかけであった。
もうずいぶん昔のことになるが、私が北京の骨董店巡りをしていた時、とある店の棚の上の方にあるガラスの置物に気がついた。それがこれである。
「毛主席が贈った珍貴なるプレゼント ― マンゴー ―」。
私は、毛沢東が贈ったマンゴーが防腐処理等されて全国で展示されていたことを知っていたので、まさかあのマンゴーが!?とびっくりしたのだが、実はその複製品なのであった。ちゃんと「複製品」と左下のほうに書いてある。中身のマンゴーは蝋細工で、非常にリアルにできている。「1968年8月5日」とあるのは、毛沢東が思想宣伝隊にマンゴーを贈った日を記念して書いてあるので、このレプリカの製作日ではない。
蝋細工の出来といい、時代を感じるガラスカバーといい、すっかりマンゴーの形にへこんでしまった変色したスポンジといい、保存状態もよく、60年代の雰囲気をまざまざと感じさせられた。私は、こんなモノがあるのか!と心から興奮を覚え、大喜びで購入した。それほど高くはなかったように思う。ガラスが破損しないよう注意して日本まで持ち帰った。
今日、改めてこれを見ていたら、中国の町々で骨董市巡りをしていた頃のことが思い出され、ものすごく懐かしい気分に浸った。実に楽しかった。
実物のマンゴーは結局永久保存はできなかったろうが、当時の中国ではレプリカのマンゴーを作ってその代用品にしたのである。
毛沢東とマンゴー。このキッチュな取り合わせが私の心を刺激し、それ以来「レプリカマンゴー」を探し集めるようになってしまった。
そうして注意して探せば、中国の骨董街や骨董市でたまに見つけることができたのである。
マンゴー置物はさまざまなモノがあるが、カバーに関しては、上記のような「ドーム型」と、「箱型」がある。また、中身のマンゴーは、蝋細工製と中空のプラスティック製のものがある。
なお、「箱型」タイプがこちら。
台は木製、カバーは4枚の板ガラスを組み合わせたツクリ。中身のマンゴーはプラスティックである。
昔の中国の置時計のカバーにはこれらとそっくりなモノがあって、このマンゴーのガラスケースは、専用というよりこうしたものを流用して作られたのではないかと密かに疑っている。
なお告白すると、東日本大震災の時、家族の無事を確認した私が次に気になったのは、「毛主席のマンゴーは大丈夫か」ということであった。幸い、地震による私のコレクションへの被害はほとんどなく、うちに帰ってほっと安心したことを思い出す。
さて、こうして当時のモノに触れることで文革期のマンゴー騒動に関心を持った私。
ところで実際、当時毛沢東が贈ったマンゴーとはどんなものであったか。マンゴーには多くの品種が存在する。私が入手した蝋細工のマンゴーは黄色い果皮でややずんぐりとした形をしていた。私の知っているマンゴーとは少し違うように感じた。
現在の日本で一般に流通しているマンゴーは主に2種ある。
九州や沖縄地方で作られるいわゆるアップルマンゴー(アーウィン種)は、表面の色が熟すと赤くなり、果形ももっと丸い。一般に高級品種だ。
またスーパーなどでよく見るいわゆるフィリピン産のペリカンマンゴー(カラバオ種。水牛の意)は、色は黄色で、やや扁平で果実の先端がすこし尖った形状である。こちらはごくリーズナブルで、ひとつ数百円で買える。
どちらも毛沢東が贈ったマンゴーとは明らかに異なる種類である。実はマンゴーは世界中でたくさんの品種が作られている。
毛沢東のマンゴーは、パキスタン産であった。パキスタンはマンゴーの大産地で、一説には、例のマンゴーはパキスタンではメジャーな「シンドリ」という品種という。写真で見ると、色といい形といい、確かに似ている気がする。味はといえば、糖度が高くて酸味が少なく、まあとにかく非常に甘いらしい。
一般的ではないにしろ、日本国内でも輸入品を入手することは可能らしいので、ぜひチャレンジしてみたいと思っている。
当時、毛沢東から贈られた労働者農民毛沢東思想宣伝隊が(もったいなさ過ぎて)味わうことができなかった味を、私が試してみたいと思うからだ。
よし決めた、来年の目標にしよう。