徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

中国 党務指導専員弁事所バッジ ~壊されたバッジが語る歴史 ~

イメージ 1

今日は、モノは民国時代のモノだが、文革ネタ。
ところで、中国の文化大革命について語ろうとして、いったいどこから話し始めていいか考えてしまうときが多い。

このバッジは、「冀察綏平津五省市 党務指導専員弁事所」とあって、具体的にはよくわからないけどとにかく中国国民党の事務所の職員徽章である。かなり状態が悪く、まあ普通なら私は手を出さないのだが、ふと気がついたのは、その壊れ方だ。
まるで、中央部の七宝が円形に剥離し、強い力が加わった証拠に、バッジ全体が歪んでしまっている。裏面のピン通しの突起も完全に潰れている。
まるで金槌で打ち叩かれたように・・・偶然の壊れ方ではない。人の手による破壊である。

文革関係の本や映画を見た人ならわかると思うが、当時、国民党の関係者などは反動派として激しい攻撃を受けた。反動派と見なされれば家財は没収され、一家は離散の上強制収容所送りも珍しくない時代だ。
そこで、身の危険を感じた人が、関係を疑われそうな文物を秘密裏に消却することも多かった。

1967年、紅衛兵運動の成果を記念して、北京で「首都紅衛兵革命造反展覧会」が開催された。
その時のパンフレットが手元にあるのだが、その「戦利品」が掲載されている。1966年8月から10月の統計として、「銃268丁、弾薬11056発、凶器19676件、反動旗(国民党旗などか?)1048面、反動官服(旧政府や宗教関係制服などか?)902着」など、さまざまな品が列記されている。もちろん現金や金銀などもある。
その中で、「反動証章 証件 14398件」というのある。国民党、旧政府や旧軍関係のバッジのことだろう。

しかし、文化大革命の2か月間で、しかも首都だけで1万4千件である。中国全土では、一体どのくらいの数になったのか、考えるだに凄まじい。
ところで、ここで素朴な疑問が誰でもわくと思うが、「戦利品」として押収されたバッジ(バッジ以外のモノも)は、一体どうなったのだろう?と。
中国バッジ大好きの私にしては、この運命は気にかかる。ああ、どれほどの名品逸品がむざむざ破棄されてしまったのかと胸が痛んだりもする。

で、この壊されたバッジが結びつくのだ。このバッジは、もしかしたらそれらのなれの果てではないのか・・・。
実は、このような傷のあるバッジは、私のコレクション中ひとつではないのだ。そこで私は、没収されたり捨てられたこれら「反動バッジ」の多くは、叩き潰されたり、溶かされたりしたと考えている。

・・・だがこう書くと、中国大陸では国民党関係バッジはすべてなくなってしまったんじゃないかと思う人も多いだろう。「中国に満州関係モノが残っているわけがない」と信じているマニアもいるようだ。
だが実際はそんなことはない。中国でも行くところへ行けば、国民党バッジを手に入れるのは容易である。
バッジだけではない、その他国民党関係のモノを含め、文革期で破壊されたはずの古いブツがたくさんある(もちろんホンモノである)。一体、これらのブツは、どうやって文革の時代を生き抜いてきたのだろう?

結局、多くの人は捨てずに没収もされずに、隠して持っていたというのが真相ではないだろうか。
私は、文革期の破壊活動や紅衛兵運動の激しさを決して過小評価するものではないが、一方で全人民が徹底してそれに染まったということも信じない。染まった振りをして、したたかにヤバそうな持ち物を隠し、激動の時代を生き抜いたのではないか。全体としてみれば、その方が真相といっていいと思う。私はそう確信している。

この辺、実に中国的というか、文革にしても、すごいんだかすごくないんだかわからない部分もある。
でも、これって実は、ある意味ちょっとイイ話なのかもしれないなあ、とも思っている私である。政治闘争の中でも生きる庶民のたくましさというか。
そう思うと、まあ実に、人間らしいエピソードらしいではないか。