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イタリア ローマで見るイタリア近現代史 ~イタリア旅行編その6~

イタリアって国は、古代ローマを初め、中世、ルネサンスと古い歴史があまりにもまばゆい光を放っているせいか、近現代史はどうしても影が薄い。少なくともわれわれ外国人にとってなじみ深い話じゃあないのだ。

じゃあ近現代はどうなんだというと、今度はいきなりムッソリーニなどの名前が突出してきて、それではちょっとあんまりだという気にもなるが、それが実際のところ。

さて、今回のイタリア旅行で最後にして最大の目的地ローマにたどり着いた我々だが、まず感じたのは記念碑的な建物が非常に多いことだ。これがおそらくローマを訪れた日本人が、共通に抱く感想じゃないかと思う。
7つの丘をもつ街ローマ。見晴らしのよい高台に上ると、古代から現代に至る、いくつもの記念碑的な大建築が目に飛び込んでくる。これがローマか、と私はとても感慨深い気持ちになった。きっとみんなそういう感慨にとらわれるのだろう。

なかでも、ローマに着いてまず印象に残ったのが、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂である。
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現在工事中で、中央部には古代建築を思わせる列柱がずらりと並ぶ壮観な姿が見られないのが残念だが、夜はライトアップされ、昼でも真っ白な姿が街中からもよく目立つ(それにデカイのだ)。
古代ローマの中心地、フォロ・ロマーノの巨大な遺跡からもほど近く、ロケーションも絶好である。

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世は、フランスの支持のもと、オーストリア帝国勢力を半島から排除、イタリア統一戦争を成し遂げ、初代イタリア国王になった(1861年)。現イタリアの元を作ったのである。
記念堂はその偉業を称えて建てられたもので、大きなイタリア国旗が掲げられ、統一戦争に参加した兵士の姿が銅像となっている。衛兵の姿も見えた。

ローマ市街の観光では、我々はパンテノンを訪れた。
古代ローマ初代皇帝のアウグストゥスの時代、アグリッパによって建てられた神殿で、そのまま残っているとは信じられないほど極めて保存状態が良好なのだ。
長いキリスト教時代を経て、内部はずいぶん変えられたんだろうな・・・と思いながら見学していたのだが、ここでヴィットリオ・エマヌエーレ2世の墓に出会った。黒いマントを羽織った衛兵もいた。
まさかこんなところにいるとは。偶然の出会いに驚きつつ、私はお参り(?)をしてきた。
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ところで、私は以前古いイタリアのバッジを持っているのだが、おそらくこれがヴィットリオ・エマヌエーレ2世の若かりし頃の肖像のバッジではないかと思っている(若い頃の肖像がどうしても見つからず、確信はない)。
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左が肖像で、右はイタリア王国の国旗。第2次大戦後、イタリアは共和制になって中央の紋章が取り除かれた。バッジの作りは古く、表の裏のパーツを爪で留める形になっている。第1次大戦頃に作られたものではないかと思っている(これも確信はないけど)。