徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 「日本七宝の輝き」と勲章、残りは個人的暴論

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六本木に、泉屋博古館(せんおくはくこかん)分館、というこぢんまりした美術館があるのをご存じだろうか。私は知りませんでした。
ここで気になる展示会をやっていることを知ったので、会期末となるこの連休に見学に行ってきた。

「明治七宝展 ~世界を魅了した技と美~」
明治時代の七宝作品が百数十点の展示だ。七宝がとてもと手も好きな私には無視できない企画展。
というわけで、六本木といえば中国大使館くらいしか知らない私だが、この縁薄い地まで足を運んだのであった。

いやー、本当に素晴らしかった
こういう展示会では、いつも「もしどれかひとつ貰えることになったら、どれを貰ってくるか」をけっこう真剣に考えながら鑑賞する私だが、今回は迷った。いや、誰もくれるわけじゃないから意味ないんだけど。

それにしても、と私が思うのは、これだけ素晴らしい作品を生み出してきたにもかかわらず、七宝の評価というのは世間では不当に低い気がする、ということだ。これは前から憤りを込めて感じていることだが、その思いを新たにした。

中国でもその傾向があるんじゃないかと思うが、日本では、やっぱり焼き物の方が「偉い」のである。七宝というものは、ガイジン向けに作られたわかりやすいニッポン工芸、という地位だったような気がしてならない。
もちろん、展示品にあったような超絶技巧を駆使した名品は、今では金では買えないくらい高値がつくだろうが、七宝技術作品に限って言えば、そういう見方ができるのである。
キラキラとしてハデな色彩のできれいな工芸品は、どちらかというと「オンナ・コドモ・ガイジン向け」という感覚が、どこかつきまとう。
陶磁器ファンの間でも、カラフルな色物より、青磁白磁のほうがなんか立派そう、と思われているのではないか。骨董市などで、したり顔で「青磁白磁の高尚さ」を語るヤツを見るにつけ、私は殺意を抱く。
実に、不満である。

それは儒教という文化の悪しき影響なのではないか、と疑っている。儒教が日本に残した害悪は計り知れないが、こんな所にもその片鱗が見え隠れする。
わかりやすくて、明るくて楽しいものなど、尊重しない。小難しく、しぶいものこそが高尚なんだぜという価値観。
実に、憎むべき価値観というべきだろう。

明治期の七宝は、世界博覧会に出品され、輸出工芸品としての地位を確立した。尾張や京都の七宝産地は、それによって隆盛期を迎えるのである。
だが、私には、それは「まあワビサビなんて言ってないで、外人向けにもっとわかりやすいものを作らなきゃ売れないよね」という意識があったろう。要は、政府主導の外貨獲得のための「欧米ウケ」を狙いである。
そして、日本産輸出工芸品が下火になるとともに、七宝産業も大いに衰退することになる。

とはいえ、生産性向上のための徹底した分業体制を確立しながら、職人たちの技巧は、そんな思惑とは別に、その技を極限までに高めていく。それが、私を感動させる。当時生み出された名品は、もはや現代では再現不可能という。

・・・と勢いに任せて暴論をぶってしまったが、あんまり共感はしてもらえないだろうなあとも思っている。

さて、徽章においても七宝は欠かすことのできない技術である。で、今回はそれに因んで日本七宝の技の光る一品を紹介しようと思ったが、どうも適当なモノが見あたらない。実際、中国のバッジの方が七宝は多用されていて、名品もあるのだが、日本モノだと七宝がスゴイ!というのはあまり見あたらない気がするのは、実に残念である。

しかたないので日本最高の勲章でも紹介しよう。
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大勲位菊花章頸飾の本体部分である。
材質は22金。特に中央の赤い七宝は「赤透(あかすけ)」と呼ばれるもので、透明感と鮮やかさ、深みの表現を実現した技術の産物。日本の象徴たる日章でもあり、こだわりのほどが感じられる。
また、菊の花の表現も、立体感が持たせられており、見とれるほどすばらしい出来である。

美術館では、七宝職人の製作ビデオを見ながら、「今度生まれ変わってきたらこういう職人になれますように」・・・とひそかに祈る私なのであった。