徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

ポーランド 第29回(1937年)世界大会バッジ ワルシャワ

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前回に引き続き、今日もエスペラントバッジの紹介だ。
まず、何のどういうバッジかを語る前に、入手に至るまでのハプニングを記しておく。

これらのバッジは、海外から一緒に購入したモノだが、実際私の手元着くまでにに恐ろしく時間がかかってしまい、そのため忘れられないコレクションとなった。

売り手はイスラエル人で、航空便なら通常10日もかからず着くはずが、1か月以上たっても一向に着かない。おかしいなあとは思いつつ、ちょうど仕事の多忙もあって半ば忘れていた。
しかし、さすがにおかしいと問い合わせると、もう日本に着いているはずだと追跡用IDを教えてくれた。調べてみると、もうとっくに日本に来ていることがわかった。
あわてて郵便局に問い合わせると、不在票の追跡番号を教えてくれと言われた。不在票は見ていないというと、私の住所氏名連絡先と送り手の国名を聞かれた上で、局内にあるかどうか調べてみるという。

郵便局からは何の連絡もないまま、さらに数週間後。
ある日、溜まりに溜まった新聞を処分しようと片付けていたら、なんとイスラエルからの荷物の不在配達票を発見。広告紙に紛れてしまっていたようだ。急いで郵便局に電話し、追跡番号を伝えると、すでに保存期間を過ぎたので送り手(つまりイスラエルだ)に返送されてしまったという。

なんたることか。
いつ頃送り手に届くのかと尋ねると、あとから電話がかかってきて教えてくれた。船便のため、日本出発から1か月以上かかってオランダに到着し、そこからイスラエルに向かうが、そのルートや実際到着する時期は不明という。

確かに、不在票を見落としたのはこちらのミス。しかし、不在配達は2回行われるそうなので、2回も不在配達票を見落としたことになるはずで、そんなことはこれまで一度も経験したことはない。信じられないことで、私は郵便局にもなにかミスがあったのではと疑ったが、証拠があるわけでもなく、そもそもすでにバッジを乗せた船は海の彼方。
要するに諦めるしかないのであった。

仕方ないので、イスラエルの送り手あてにメールを打った。
「手違いでアイテムはあなたへ返送されてしまった。申し訳ないがもう一度日本へ送ってもらえないか。送料はこちらで負担する」
するとすぐに当のイスラエル人から返信があり、
心配いらない。こちらに届いたらもう一度送付する。送料はこちらで持つ
と、実に親切な人であった。

こうして、初めの発送から3か月以上かかって地球約1周の移動距離を経て、これらのバッジは私の下にたどり着いた。。
相手が親切な人で、バッジが無事届いてよかった。

さて、そんなトラブルもあったが、届いたバッジは素晴らしいものであった。前回のドイツ国内大会のバッジもよかったが、これもまた得難いバッジである。

こちらはエスペラント世界他会のバッジで、1937年にワルシャワで開かれた第29回大会のものである。
バッジには国際主義を表す地球儀とエスペラントの緑星、そしてワルシャワのシンボルである剣と盾を持つ人魚が描かれている。
1887-1937 第29回エスペラント国際記念大会 ワルシャワ1937年8月7-15日」とある。

なぜ記念大会なのかというと、エスペラントが発表されたのが1887年で、それから50年の節目の年に当たるのである。創始者であるザメンホフ博士に敬意を表して彼の母国ポーランドで大会が開催されたのだ。
なお、ザメンホフ生誕100周年の1959年、エスペラント誕生100周年の1987年にも世界大会はワルシャワで開催されている。
1959年の世界大会バッジはすでに当ブログで紹介した(「関連の既出項目」参照)。
この時のバッジにも、ちゃんと剣と盾を持つ人魚が描かれている。

くどいようだが、やはりこの後、エスペラントを襲った悲劇に触れておこう。

エスペラント誕生50周年記念大会からわずか2年後、ナチスドイツ軍の侵攻によりポーランドは占領される。ポーランドでもユダヤ人や共産主義者、その他「危険思想」の持ち主は弾圧や迫害の対象となった。
エスペラント創始者ザメンホフユダヤ人であったこともあり、エスペラントユダヤ人による世界征服の陰謀とみなされる。ヨーロッパのエスペランティストたちは苦難の時代を送ることになった。ザメンホフの3人の子供は、全員ホロコーストの犠牲となったのである。

エスペラント世界大会も、1938年の第30回ロンドン大会の後、戦争のために実に8年間の中断を余儀なくされる。31回世界大会は、1947年になってようやく開催されたのであった。