徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

ウクライナ ロマン・シュヘーヴィチ(ウクライナ蜂起軍指導者)のバッジ

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ロマン・シュヘーヴィチ(ウクライナ蜂起軍指導者)バッジ

 

北京オリンピックが終わったと思ったら、ロシア軍がウクライナへの軍事侵攻を開始。軍事作戦は東部のロシア派支配地域だけにとどまらず全土に及び、首都キエフも陥落かという状況である。

まさかそこまでロシアが愚かな真似はするはずはないと私は漠然と思っていたもので、このニュースには本当に驚いた。

当然世界中からも非難の声が殺到し、欧米各国はロシアに対する経済制裁措置を開始した。だがこれがどこまでロシアを思いとどまらせる効果があるかというと心もとない。多くのロシア人もこの戦争を積極的に支援しているとは思えないのだがどうだろう。

ロシアによる全面的軍事侵攻はもはや局地的な紛争や軍事的衝突などというものではなく、世界史的な大事件である。ウクライナの国土は日本よりもはるかに広大なのだ。

仮に軍事的制圧には成功しても将来にわたり、ロシアも深手を負うことになるだろう。世界経済への悪影響も、コロナウイルスのダブルパンチで深刻化するだろう。もう本当に暗澹とする。

 

で、今日のバッジ、この人物が誰かご存じだろうか。

軍服に見える「三叉戟」の襟章は、現在のウクライナの国章でもある。キエフ大公国の紋章に由来するという。この人物は、ウクライナ蜂起軍(UPA)の指導者であるロマン・シュヘーヴィチ(Roman Shukhevych)である。額のあたりが特徴的な顔立ちだ。

バッジの色は黒縁に赤。これはUPAの軍旗(赤黒の二色旗)と同じ色である。「黒いウクライナの大地にこぼれた赤いウクライナの血」を表すという。

バッジには「1950-1990」とあるが、シュヘーヴィチが戦死したのが1950年であるので、おそらく彼の没後40周年の記念に作られたものではないかと想像する。ソ連崩壊後、ウクライナは独立し、シュヘーヴィチが民族の英雄として名誉回復するのである。

いや、ちょっと待てよ・・・。

ソ連邦の解体は1991年12月25日、ウクライナの独立宣言が1991年8月24日。このバッジがシュヘーヴィチの死後40年を記念して1990年のタイミングで作られた可能性はあるのだろうか。・・・この頃、すでにソ連邦の政治的動揺を受けて、ウクライナでは民族主義的な機運が盛り上がっていたのかもしれない。それでこのようなアイテムが誕生したの可能性はある。

なにせ、ウクライナ蜂起軍やシュヘーヴィチは、本当であればソ連から見ればナチ協力者の国家の憎むべき裏切り者でしかない。政治的には絶対許される存在ではない。1990年の時点でこのバッジが作られていたとすれば、すでにウクライナに対するソ連の力は相当に弱体化していたことを示している。

ウクライナ側から見れば、ソ連共産党による政治的被害は悲惨を極め、1933年にはほとんど虐殺ともいうべき大飢饉により数百万のウクライナ人が餓死したという。第二次大戦でナチスドイツがウクライナに侵攻すると、ドイツ軍に加担する動きが頻発したというのも理解できよう。

もっともナチスドイツももちろんウクライナの友人ではなかった。民族運動からうまれたUPAにとっては、ナチスドイツもソ連共産党も、共に敵であったのだ。

ソ連ウクライナ民族主義を掲げてソ連軍と戦うUPAの勢力は強力だったが、1947年以降はソ連軍の工作により弱体化、1950年3月5日に指導者のシュヘーヴィチがリヴィウ近郊で殺害されるとUPAの戦闘力は一層低下し、1950年代中頃後には壊滅的な状態に陥った。しかし、50年代に入ってもウクライナで激しい反ソ闘争が根強く続いていたことは驚くべきことであろう。

・・・だが、80年代後半にソ連邦が動揺するとウクライナの民族運動も公然と息を吹き返した。このバッジはその証といえる。

さらに時代は下って現在、2022年。

独立から30年後、再びソ連軍がウクライナに攻め入ってきた。かつてシュヘーヴィチらの反ソ闘争を知らないウクライナ人はいないだろう。ウクライナ軍はかつての民族闘争を思い出しつつ、戦っているはずである。