画像のバッジは、だいぶ前に入手したもので、あまり気に留めていなかったが、最近youtubeで軍事歴史ライターの「宮永忠将のミリタリー放談」を視聴して、ふと思い出した。このバッジは、1908年に日本に寄港したアメリカ艦隊「グレイト・ホワイト・フリート」の歓迎記念品である。
1901年に大統領に就任したセオドア・ルーズヴェルト大統領は、アメリカの海軍力増強に尽力した人物である。海軍国アメリカとしての地位を確立するため、戦艦の建造とともに、人材育成のために海軍兵学校の拡張と改革を徹底して行った。
彼の実施した一大事業のうち、アメリカ海軍艦隊の世界周航がある。1907年12月から1909年2月にかけて、戦艦16隻からなる大艦隊をアメリカ東海岸から南米大陸の南端を回ってアメリカ西海岸へ、さらに、太平洋を横断してオーストラリア、当時アメリカ領となっていたフィリピン、日本、中国(清)、そしてインド洋を渡ってスエズ運河を通過し、地中海を抜けてアメリカへ帰還させるという、壮大な事業であった。このアメリカ艦隊は白色に塗られていたので、「グレイト・ホワイト・フリート」と呼ばれる。
アメリカの海軍力を誇示するとともに、世界中に海軍を展開する実力を養おうとしたのである。
日露戦争に勝利した日本は、やがてアメリカを仮想的とした国防方針を打ち立てており、国際的にもアメリカ艦隊の訪日をきっかけとして日本とアメリカの軍事衝突を予想する世論も起こっていた。そのような世界の思惑を否定するためにも、日本政府はアメリカ艦隊を歓迎する。当時、日露戦争終結からわずか3年後という時代だ。
グレイト・ホワイト・フリートが日本に寄港したのは、1908年10月18日から25日であった。
この16隻の戦艦からなるアメリカ大艦隊を、日本海軍は戦艦三笠をはじめ、主要艦を総動員して出迎えた。日本としても精いっぱいの海軍力を示そうとしたのであろう。
横浜に入港したグレイト・ホワイト・フリートを、日本は官民挙げて大歓迎した。横浜は大勢の見物客で賑わったという。明治天皇も艦隊提督を謁見。日米両政府の腹の内はともかく、歓迎ムードのうちに日本寄港は終わり、グレイト・ホワイト・フリートは中国へと去っていった。
画像のバッジは、当時の歓迎グッズとして作成されたもので、オリジナルの箱付きの美品である。
バッジ本体は金メッキに七宝彩色ので、星条旗と旭日旗と錨を組み合わせた日米友好を強調している。バッジの下部に訪問時の「1908」、裏面には「歓迎」の文字が見える。
箱表面に「米国艦隊歓迎記念 日本海軍」、蓋裏に「MIYAMOTO SHOKO GINZA TOKYO」とある。製造は、明治13年(1880年)⽇本初の銀製品専⾨店として創業した「宮本商行」であった。
このバッジ、他にも同デザインのもっと簡易な仕上げのタイプを見た記憶がある。おそらく様々なものが作られたのであろう。
さて、バッジを作るのに、どれほどの時間がかかるだろう。
アメリカ艦隊の日本寄港が決定し、歓迎式典その他の行事計画が検討され、その中で記念品の作成が決まり、軍から業者(この場合は宮本商行)に発注され、業者によるバッジ製作が始まり、軍に納品される。結構な時間が必要な気がするがどうなのだろう。
それにしても、歓迎行事に際して、記念品としてこのように凝ったバッジが作成されるというのも、実に徽章文化華やかなりし時代であった。