徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 「東京震災記念事業協会」会員章3種(名誉会員、特別会員、正会員)

「東京震災記念事業協会」会員章3種(左から、名誉会員、特別会員、正会員)


1923年9月1日に関東大震災が発生してから99年がたった。宮崎駿監督の「風立ちぬ」では、関東大震災のシーンが出てくる。大地がうねうねと動き、家々が土煙をあげて崩壊する様子が、不気味に描かれている。映画を見ていて、私は東日本大震災で感じた恐怖を思い出したものだ。


現代と大きく違うのは、関東大震災では地震の揺れ自体よりも、大火災が悲惨な被害をもたらしたことである。

死者行方不明者は10万人を超えたとされる。

震災の翌年8月、東京市は「東京震災記念事業協会」を設立し、最も惨害の大きかった横網町軍被服廠跡に記念堂の建設を計画した。

東京震災記念事業協会々則

第二条 目的及事業

本会ハ東京ニ於ケル大正十二年ノ第震災ヲ記念シ併セテ遭難者ノ霊ヲ弔スル為メ左ノ事業ヲ行ウヲ以テ目的トス
一、東京市本所区横網町一丁目(陸軍被服廠跡)ニ記念堂ヲ建設シ之ニ附帯スル公園施設ヲ為スコト

全国からの寄付金、皇室からの内帑金、市や内務省補助金、海外諸国からの援助金などにより、震災から7年後の昭和5年9月1日に「震災記念堂」竣工式を挙行した。

記念堂設計案は公募され、審査を経て1等案が発表されたのだが、ここでひと悶着があった。当選案に対して仏教連合会から「西洋的建築の模倣にして国民固有の思想信仰を顧慮せざるもの」などとして案の撤回を求める陳情があったほか、多方面から反対意見が上がった。

設計案への反対意見を受け、協議会では審査員と協議の上、著名建築家の井上忠太に設計を依頼することとなった。それが今も残る震災記念堂(今は「慰霊堂)と改称)である。私も行ったことがあるが、独特の雰囲気を持つ建設物だ。

なんだかいつの時代も色々とあるんだなあと担当者の苦労に同情するばかりだ。

実は、このブログを書くにあたり、参考としたのが、国立国会図書館デジタル図書館の「東京震災記念事業協会事業報告」(昭和7年3月)である。こういう意外なエピソードが記載されていてきわめて興味深い。目的を忘れてつい読み込んでしまった。

 

さて、今回紹介するのは、東京震災記念事業協会の会員章3種である。
このバッジについてはすでに紹介したことがあって、割と私の好みなのだが、複数の異なる色のバッジがあることには漠然と気づいていた。
なぜ複数の色があるのか。上述の「東京震災記念事業協会事業報告」に明確に記載がある。

「財団法人東京震災記念事業協会会員規則
第一条    本会ノ目的ヲ翼賛シ金品ノ寄贈ヲ為シタル者又ハ特二功労アリタル者ヲ本会会員トス
第二条    金品ノ寄贈ヲ為シタル会員ヲ分カチテ左ノ四種トス
 一 名誉会員 壱千円以上ノ金品ノ寄贈ヲ為シタル者
 二 特別会員 壱百円以上ノ金品ノ寄贈ヲ為シタル者
 三 正会員 拾円以上ノ金品ノ寄贈ヲ為シタル者
 四 普通会員 拾円未満ノ金品ノ寄贈ヲ為シタル者
第三条    本会ニ対シ特ニ功労アリタル者ハ理事会ノ議決ヲ経、名誉会員又ハ特別会員ニ推薦ス
第四条    名誉会員、特別会員、正会員ニハ記念章ヲ交付ス

この3種のバッジはそれぞれ箱付きで、そこにある文字から、左(白色)が名誉会員章、中央(赤色)が特別会員章、右(青色)が正会員章である。

比べて見れば、名誉会員章は金色であることがわかる。
会員としては普通会員という区分もあるが、記念章は交付されない。記念章と引き換えにすることで、寄付金を集める効果も上がっただろうか。

ところで、最上位である名誉会員章は「壱千円以上ノ金品ヲ寄贈」した者(又は特別に功労のあった者)が交付されるとのことだが、大正末~昭和初期における「千円」の価値とはどの程度のものか。

この問題はいつも難しい。何を基準にして比較するかで現代の金額への変換は大きく異なってしまうからである。企業物価指数を基準にすれば約53万円、公務員初任給ではなんと約259万円。

かなりの差があるものの、まあ一般庶民がポンと寄付するにはかなり高い金額であることは違いはなかろう。

震災から20数年後、東京は大空襲により甚大な被害を受けて再び壊滅することになる。「震災記念堂」は戦災遭難者の遺骨も併せて収め、「慰霊堂」と改称され、今に至っている。

来年は震災から100周年。東京震災記念事業協会が残していった成果品は、後世の防災意識の向上に確かに役立っていることと思う。