徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 神戸中華同文学校バッジ

神戸中華同文学校バッジ(2種)

令和4年末の日本の在留外国人数は過去最高を更新し、初めて300万人を超えたという。国籍別では中国は最も多く、以下ベトナム、韓国、フィリピンと続く。

中国とは地理的、歴史的につながりの深い日本には古くから華僑社会があり、その子弟のための民族学校が各地に存在した。戦前最も多かった時期には全国に10校が存在したが、現在は5校(東京中華学校、横浜山手中華学校、横浜中華学院神戸中華同文学校、大阪中華学校)となっている。

第2次大戦後の共産党と国民党の対立は、日本の華僑社会でも深刻な影響を与えた。日本の中国系民族学校は今でも大陸系と台湾系に色分けされる。幸いなことにかつてのような対立構造は完全に薄れてはいる。

さて、今日紹介するのは、神戸中華同文学校のバッジだ。現存する中華系学校の中では、唯一「同文」という日本と中国の関係を強く意識する単語が校名に入っている。同校は大陸系の学校である。

学校の沿革によれば、学校の歴史はいくつかの合併を経て現在に至っている。

1899年、日本に亡命中の梁啓超が学校の設立を呼びかけに有力華僑商人が応じ、翌1900年に「神戸華僑同文学校」が完成。名誉校長は犬養毅であった。

1928年、神戸華強学校と中華公学が合併し、「神阪中華公学」と改名。

1939年、神戸華僑同文学校と神阪中華公学が合併し、「神戸中華同文学校」と改名。

丸形のバッジは校章であり、現在も同じ校章が使われている様子が公式サイトに見ることができる。

なお、同校の公式サイトでは、校章のデザイン作者について以下の記載がある。

李平凡(本名:李文琨、別名:里肯)、本籍天津市津南区高庄、1922年5月13日生まれ。天津高庄小学校及び天津市美術館西洋画科で学ぶ。1943年、同郷の人である当時の神戸中華同文学校校長李万之に招請され、本校の美術教師となる。

校名が「中華同文学校」に定まったのが1939年なので、バッジの作成年はそれ以降のものとなる。年代を特定することは困難だが、50年代頃のものではないかと思う。

私のコレクションの中にも学校関係バッジは多いが、国内の民族系学校のものはユニークである。