徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 弘前女学校(現:弘前学院聖愛中学高等学校)校章バッジ

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衰退著しい現在の日本徽章文化で、重要な位置を占めるのが校章バッジ。生徒・学生がその所属を明らかにするために佩用するバッジだ。
今も大量に作り続けられているが、実はバッジコレクターにとってはちょっとした難物である。なぜかというと、どこの学校のモノかを調べるのがけっこう難しい。学校の名前が裏面に記されていることなどまずない。デザインも似たり寄ったりで、そこから校名を導き出すのはほぼ不可能だ。
しかも、古いバッジだと名称や組織体制(吸収合併や共学化など)の変化があることも極めて多く、調べにくいのである。地元では周知のことなのかもしれないけれど。

さて、この画像のバッジは、たまたまバッジをまとめ買いした時に含まれていたモノだ。校章バッジとは分かる。なんとなく私好みのバッジで、正体が知りたかったが、なかなか果たせなかった。
が、ついに、たまたまネットを見ていて正体が判明したので紹介したいと思う。忘れないためにも。

弘女」と書いてあるのが唯一にして大きな手がかり。「弘」は青森県弘前市のことで、そこの女子校バッジだろうと、初めに当たりをつけた。
そこで思いつくままネットであれこれキーワード検索してみたのだが、それらしい学校名はあれど、校章のデザインがどれも一致しない
古そうなバッジなので、もう存在していないのだろうかとも思った。

だが、忘れなければヒントは見つかるものだ。入手から何年もたって、ようやくソックリの校章を見つけることができた。「弘前学院聖愛中学高等学校」である。
色も山型のフォルムはまったく一緒で、ただその上の文字は、筆記体で「SEIAI」となっている。
これに違いない!

学校の公式サイトを見ると、「青森県弘前市にあるキリスト教主義の私立学校です。創立は1886年(明治19年)です。」とのこと。

以下、沿革の抜粋。
 1886(明治19)年、弘前教会内に女学校を開設。校名はミセス・ライトにちなんで来徳女学校と称した。
 1887(明治20)年、校名を弘前遺愛女学校とし、函館遺愛の分校の形をとる。
 1889(明治22)年、弘前女学校として設立認可、生徒は小学科、本科、あわせて七十余名。

そして戦後の学制改革を経て、現校名「弘前学院聖愛中学高等学校」になったようだ。
なお、開学当時は青森ではまだ女子就学率が低く、弘前女学校は明治33年までは青森県内唯一の女子中等教育機関であったという。

この沿革を読んで、ようやく私は「弘女」がなんの略名か知ることができたのである。
「弘女」=「弘前女学校」なのであった。

わからないはずである。現在の校名には、「弘前」はあっても、「女」の文字はどこにもない。これでは検索にかからないはずだ。だって私に与えられたヒントは「弘」と「女」の2文字しかなかったのだから。
しかし、開学以来半世紀以上も「弘前女学校」の名前は使われ続けていたわけで、地元の人がこのバッジを見ればすぐに、あの学校のものだと気がついたであろう。

バッジは純銀製(裏面に刻印あり)の七宝仕上げで、全体に摩滅が見られ、使い込まれた雰囲気がある。ただ目立ったキズはなく、大切に使われた感じを受ける。
また、ピンが市販の安全ピンに替えられている。オリジナルのピンが折れたりして壊れたのか、より使いやすくしたかったのか、たぶんどちらかの理由で付け替えたのであろう。
さらに裏面には所有者の名前が針状のもので彫り込まれている。

このバッジが私の印象に残ったのは、この独特の形である。円形や花型、校名をデザイン化したバッジはよくあるが、これは山をそのまま象り、白と緑の七宝で彩っている。
弘前のシンボルの山といえば、津軽富士こと岩木山である。私も学生時代に弘前を訪れた時、ああこれが津軽富士かと思って眺めたことがある。丸みを帯びた3つの嶺は、よく特徴を捉えていると思う。

この学校、校名は変わった後も、校章は基本的に変えなかったのだなあと思う。古い学校の歴史を残したかったのか、それとも学校からよく見えるというこの山への愛着か。
おかげで私はこのバッジの正体を突き止めることができたわけだけど。

学校の公式サイトには、大正11年に制定された校歌があった。その1番にもこの山の姿が次のように歌われている。

「残れる雪も 白銀と
 春に輝く 岩木山
 高き空より 垂れ給う
 大御教えは 愛と慈悲」