徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 広島県立広島第一高等女学校校章バッジ

 

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広島県立広島第一高等女学校校章

今日8月6日は、75年目の広島原爆投下の日。被爆体験者の高齢化は一層進み、遠からずいなくなるであろう。直接自分の体験を語れる人がいなくなった時、日本人が共有していた核兵器の認識は、戦争へのイメージはどう変容していくのだろうか。

 

さて、このバッジは、正体不明ながら七宝がきれいでいいなあと目が留まったものだ。「HIROSHIMA」「県女」とあるからには、広島の女子校(女学校)のバッジ(校章)であろうと推測されたが、さてなんだろう・・・。ネットで検索すると、意外なところで正体が判明した。

広島県立広島第一高等女学校職員生徒追憶碑」に、これと全く同じ校章が刻まれているのを発見したのである。こんな形でバッジの正体が明らかになるとは。

広島県立広島第一高等女学校の原爆被害は、悲惨なものだった。現広島県立広島皆実高等学校の沿革には、当時の被害について次のようにある。

「1945(昭和20)年8月6日,8時15分,原子爆弾が炸裂し,一瞬にして地獄と化した。学校長以下教職員20名, 生徒277名計297名の犠牲者を出した。様々な記録・報告・写真集によって,あの日の惨状は後世に語り伝えられている(略)」

さらに調べると、死亡した生徒が着ていた服が広島平和記念資料館に収蔵され、ネットでも見ることができる(大下靖子さんの夏服)。

原型がわからないほどボロボロになった上着の胸には、これと同じバッジが付いたままである。

画像のバッジをよく見てみよう。上部に「HIROSHIMA」、中央のハート型の中に「県女」の文字。2匹のホタルが寄り添っている。全体の形は、おそらくナデシコの花を象っているのだろう。青、白、赤の七宝を基調に、鮮やかでかわいい感じのデザインである。

材質は純銀製で、裏面に刻印がある。入手したときは薄汚れていたが、油で汚れをふき取ったところ、つややかな七宝の表面と銀地が現れ、見違えるほど美しくなった。

ここで、このバッジはいつ頃使用されたものだろうか。

まずは学校の沿革である(広島皆実高等学校のサイトから引用)。

1901(明治34)年~1940(昭和15)年 広島県立広島高等女学校
1941(昭和16)年~1947(昭和22)年 広島県立広島第一高等女学校
1948(昭和23)年 広島県立広島有朋高等学校
1949(昭和24)年~1952(昭和27)年 広島県立広島皆実高等学校(総合制)
1953(昭和28)~1968(昭和43)年 広島県立広島皆実高等学校(単科制)
1968(昭和43)年~現在 広島県立広島皆実高等学校

上述のように、広島平和記念資料館の収蔵品との比較からも、昭和20年当時、画像のバッジが使用されていたことは間違いない。昭和23年からは校名が「広島有朋高等学校」と変わるので、昭和22年以前のものということは間違いない。

ただ、第一女子校の前身の広島高等女学校時代の校章が不明なので、もしかしたらデザインが全く変わっていないという可能性も残る。したがって、確実に言えることは、これが昭和22年以前のバッジであるということしかない(実際には、ツクリからしても明治期のものである可能性はないだろうが)。

さらに調べたところ、微妙にパターンが異なるバッジの存在を発見した。

画像のバッジには「HIROSHIMA」と記されているが、全体のデザインは全く同じで、「HIROSIMA」というローマ字のつづり違いのものと、「ヒロシマ」というカタカナ表記のバッジが存在するのだ。

作られた時期による違いであろうが、それぞれの時代は残念ながら不明である。

 

こんなことが気になるのは、このバッジが、所有者とともに原爆の惨禍をくぐり抜けてきたかもしれないと思ったからである。

まあそんな答えはまず出ないのだろうけど。