すこし、宮城与徳のことが頭を離れない。
宮城与徳の一家もそうだったらしい。父や兄、従兄弟がアメリカに移民として渡り、その伝手をたどって与徳も渡米した。1919年、わずか16歳のことである。
彼は美術学校に学びながら、次第に社会問題に関心を抱くようになり、1931年、アメリカ共産党日本部に入党した。
そして、ゾルゲの連絡役としての任務を帯びて帰国、1941年に逮捕、1943年に獄中死する。享年、40歳。
彼は美術学校に学びながら、次第に社会問題に関心を抱くようになり、1931年、アメリカ共産党日本部に入党した。
そして、ゾルゲの連絡役としての任務を帯びて帰国、1941年に逮捕、1943年に獄中死する。享年、40歳。
1931年にアメリカ共産党に入党かあ・・・と思ってコレクションを漁っていたら、ちょうどその頃のバッジを見つけたので紹介する。
アメリカ共産党の、「ロシア革命14周年記念バッジ」である。ロシア革命が1917年だから、その14周年ということは、ちょうど宮城与徳が入党した年のバッジである。
工場とおぼしき建造物の上に、希望の光を放つ共産主義シンボルの「槌鎌」。それを黒人と白人が肩を並べて仰いでいる、という図である。
ちなみに、アメリカ共産党ではこの頃、ロシア革命記念バッジは毎年発行している(デザインは全く異なる)。
アメリカ共産党の、「ロシア革命14周年記念バッジ」である。ロシア革命が1917年だから、その14周年ということは、ちょうど宮城与徳が入党した年のバッジである。
工場とおぼしき建造物の上に、希望の光を放つ共産主義シンボルの「槌鎌」。それを黒人と白人が肩を並べて仰いでいる、という図である。
ちなみに、アメリカ共産党ではこの頃、ロシア革命記念バッジは毎年発行している(デザインは全く異なる)。