徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 柵原鉱山 勤労報国隊バッジ

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柵原」と書いて、サテどれほどの人がこの地名の正確な読み方を知っているだろうかと思う。

岡山の人なら知っていよう。「やなはら」と読む。

岡山県の中東部に、柵原町はかつて存在した。平成の大合併で今は美咲町となっている。いまでは何の変哲もない山間地帯だが、かつては鉱山の町として栄え、鉱石を搬出するための鉄道(片上鉄道)も通っていた。

柵原鉱山は、良質な硫化鉄鉱石を豊富に産出し、関連産業も含めて地域は栄えたが、戦後は安い輸入原料と円高、肥料需要の低下等により1991年にはついに閉山。それに伴って片上鉄道も廃線となった。これは日本全国の鉱山がほとんど共通してたどった運命である。

さて、このバッジは、柵原鉱山の勤労報国隊のもの。バッジのデザインを見ると、国旗の中に交叉しているものは、鉱山らしくツルハシとハンマーであろう。

勤労報国隊は、戦時下の労働力不足を補うため、国民勤労報国協力令(昭和16年11月)により、従来の雇用労働者だけでは不足する労働力を補うため、一般国民を組織して各種労働に当たらせるものであった。勤労報国隊の受け入れ先としては、鉱山労働も多かったようだ。

原則として「1年につき30日以内」(同令第4条)、「協力に要する経費は、協力を受けるものが負担」(第6条)などと規定されている。ただし労働報酬は発生しない。あくまでも国民の協力なのである。

柵原鉱山も勤労報国隊の受け入れ先として指定されており、しかもこのようなバッジをわざわざ作るところを見ると、それなりの規模の報国隊員が労働していたのであろう。

さらに昭和20年5月には兵器工廠の疎開先として、地下工場の建築がスタートした。

兵器工廠の疎開は、地下工場完成を待たずに終戦を迎え、国民動員も終了した。

戦後、食糧増産に欠かせない肥料原料となる硫酸原料鉱石を産出する柵原鉱山は活況を呈し、1960年代に最盛期を迎えた。

 

現在、旧柵原町には、鉱山公園や資料館、片上鉄道駅舎などが保存されているらしい。ぜひ行ってみたいと思った。

どの鉱山でもそうだったように、この鉱山でも数々の深刻な事故に見舞われており、そのたびに多くの人命が失われた。

事故、戦争による混乱、戦後の好況、そしてそれらすべてが終わった後に広がる廃墟。

・・・かつて、このバッジを胸につけた人は、どんな労働に従事し、どんな生活をしていたのだろう。その彼がもし、現在の光景を目にしたら、どういう感慨を抱くことだろう?