調べてみたら、日本の歴代総理大臣経験者のうち、暗殺により世を去った者はこれまで6人いるそうだ。戦後は一人もなく、すべて戦前である。2022年現在、64人の総理大臣が誕生しているのだが、結構な高確率のような気がする。
さらに、このうち総理大臣就任中に暗殺されたのは3人。原敬(第9代)、浜口雄幸(第27代)、犬養毅(第29代)である。
今日はその総理大臣として初めて暗殺された原敬にまつわる一品である。
裏面には「故原総理葬儀記念」とあって、葬儀式典の記念品として作られたと思われる。
原敬は大正10年11月4日、東京駅で国鉄職員であった青年、中岡艮一に短刀で刺されて死亡した。享年65歳。事件の政治的背景などもいろいろ疑われたがはっきりしたことは明らかではない。
葬儀は11月10日、郷里の岩手県盛岡市で行われ、雨中、大勢の参列者が市内の大慈寺を訪れたという。
その時の記念品かとも思っていたが、事件からわずか1週間でこんなバッジが作れるかと疑問もわく。絶対不可能とも思わないが、死去と同時にバッジを発注する者もいないだろうから実際にはもっと短時間で製作することが必要で、このため少なくともこの時の記念品ではないように思う。もっと後の何らかの式典か?
ところで、バッジ表面の花模様はなんであろう?
調べてみたら意外にあっさり判明した。原家の家紋「三つ桜」である。
盛岡市のサイトに地元の著名人である原敬を紹介したページに、大慈寺小学校の校章についての記述があった。
原の「宝積」の精神を子どもたちに伝えるため、墓所である大慈寺の前に開校されたのが大慈寺小。原は校歌にも盛岡の偉人として歌われ、校章には、原家の家紋である「三つ桜」に「大」の文字が挿入され、原の精神と人徳を継承する子どもたちを育てるという願いが込められています。本年で開校 90 周年を迎え、今なお原の墓所の清掃や追悼会での校歌披露などをしています。
(「もっと知りたくなる原敬」より)
この小学校は、原敬の墓所前に、そのことを記念するために、彼の死から7年後に作られたのである。
実は我が家は会津若松にルーツを持つ。そのため、会津には全く住んだこともない私も、戊辰戦争以後の郷里の苦労について民族教育のように聞かされた体験を持つ。だから、戊辰戦争で賊軍であった盛岡藩出身で総理大臣まで上り詰めた原敬が、郷里でどのような存在であったかと想像がつく。
原敬の紹介ページには、次のような記述もある。
原敬は、晩年、「一山」の俳号と「一山百文」の落款印をしばしば使いました。戊辰戦争の時、新政府軍が東北を蔑視して言ったとされる「白河以北一山百文」にちなんだものです。
(「もっと知りたくなる原敬」より)
また、彼の家族にしてからも、死亡が確認された後、死んだからにはすでに私人になったので遺体は官邸ではなく私邸に戻すべきと主張し、そのようにされた。
藩閥政治の影響がまだ残る時代である。位人心を極めてなお、こういうエピソードを残すところが東北人の心に痛快に響くのである。
そして、私はこういう話を聞くにつけ、そういう気持ちについ共感すると同時に、かすかに複雑な気持ちを抱くのが常なのである。ホント、複雑なんだ。
東京駅には、原敬の暗殺地点がプレートとして示されているという。今度ぜひ見てみたいと思う。