徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 社会大衆党党員章 ~浅沼稲次郎の出身地、三宅島訪問記~

社会大衆党 党員章

記録的に暑かったこの夏のイベントといえば、三宅島に行ってきたことである。ここ数年伊豆諸島を訪れており、これまで行ったことのない三宅島に行こうと急に思い立ったのであった。

溶岩で覆われた阿古地区。島中央部を望む。かつてここにも集落があった。

東京竹芝桟橋を夜間に出港した船は、朝5時に三宅島に到着。片道約6時間、結構遠いのである。船の中のベッドは意外と快適で、ぐっすりと休むことができた。

伊豆諸島は、どれも火山の島である。特に三宅島は2000年の噴火から4年間以上全島民の島外避難が行われたほど、火山活動が激しい。今も火山性有毒ガスの懸念から島中央部(雄山)への立ち入りが規制されたままだ。

そのため、島内観光といえば、何よりダイナミックな火山活動の痕跡である。島西部の阿古では1983年の噴火により、溶岩で押しつぶされた小中学校の跡を見ることができる(この周辺は遊歩道として整備されている)。

夏は海水浴場がにぎわう。どこも溶岩がじゃりじゃりとした黒い浜である。海はきれいで、噴火活動のせいで変化にとんだ風光も楽しめる。しかし、その火山はまた、島民の生活に大きな被害も与えてきたのである。この島に暮らす宿命とはいえ、その苦労に思いをいたさざるをえない。

さて、三宅島は、実は浅沼稲次郎の出身地で、生家が今も残っている。行くことを決めるまで私はこのことを知らず、大いに驚き、一層島を訪れるのが楽しみになった。

以前、当ブログで書いたとおり、私は彼のサイン色紙を持っている(古本屋で買った)。

浅沼稲次郎の生家(神着地区の児童公園内にある)

浅沼稲次郎は、明治31年にこの島に生まれた。生家は島北部の神着地区にある。今は児童公園の一画に立っており、そう古い感じもしないので、幾度も改築されてきたのであろう。生家の脇には銅像が立っている。一応集落のメインストリートには案内表示もあったが、生家自体にはなにも目印がなく、あれっここかな?という感じなので訪問する人はちょっと注意した方がよい。

生家の脇に立つ銅像。昭和54年建立。

生家の近くには銅像が立っており、脇の銘文には次の文字が見える。

浅沼稲次郎先生は、明治三十一年この地に生まれ、早稲田大学を卒業した。この三宅島をこよなく愛し、帰省の都度の姿は今も島民の記憶するところである。

大正十四年農民労働党の書記長に推され、その後東京市会議員、都議会議員に当選し、さらに国会議員にえらばれること九回、また昭和二十五年、日本社会党委員長に任じ、国政に貢献した。

大衆政治家としての姿勢を貫いた先生は、国民に敬愛され、島民の等しく誇りとするところである。惜しくも志を残して昭和三十五年日比谷公会堂において、不慮の最期を遂げた。

          享年六十一歳

 

          昭和五十四年六月

          故浅沼稲次郎先生銅像建立世話人

 

 

ということは、この銅像はあの衝撃的なテロ事件から19年後に作られたものなのか。政治テロによる殺害ではなく、あえて「不慮の最期」という表現がやや気になった。

私は少し感慨深い気持ちに浸りつつ、セミの声を浴びながら、木陰で汗をぬぐい佇んでいた。八丈島もそうであったように、三宅島でも聞こえてくるのはなぜかツクツクボウシばかりであった。

浅沼家は土地の名主であったようだが、もともと流刑地でもあった三宅島は農業にも向かず、裕福な土地ではない。内地に進学した浅沼少年が労働運動に関心を持つようになったのは、島育ちの体験と切り離せないだろう。この人は生涯にわたって労働運動には取り組んでいるが、決して共産主義者ではないところにも人柄が表れている気がする。

当地を訪れたとき、浅沼姓がここでは非常に多いのが印象的であった。ランドリーアサヌマ、(有)浅沼教材店など、集落のあちこちで見かけることができる。浅沼稲次郎とこの島との繋がりを実感した。

 

さて。

今日紹介するバッジは、社会大衆党の党員章である。彼も身につけたかもしれないと思うと感慨深い。五角星と打ち砕かれた鉄鎖が描かれたバッジである。

社会大衆党は、1931年、離合集散を繰り返すプロレタリア政党が大同団結した政党で、二大政党に加えて第三極を形成する存在となった。戦前プロレタリア政党の中ではメジャーな存在といえる。が、結局は体制翼賛体制の中に呑み込まれていった。

 

この他、このブログでは関連バッジとして、以下を改めて紹介する。

まず、1926年に成立した労働農民党関係である。統一的プロレタリア政党という意味では浅沼が参加した社会大衆党の前身的存在といえる。

badge-culture.hatenablog.com

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そして、死去後葬儀関連記念品として作られたであろうデスマスクバッジ

badge-culture.hatenablog.com

島には郷土資料館があって、一応浅沼稲次郎コーナーもあることはあるのだが、正直あまり見るべき展示品がないのが残念である。故郷ならではのゆかりの品などが残っているかもしれないと思うので、なんとか収蔵につとめてほしいと切に願う。