徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 労働農民党バッジ

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今日は戦前政党バッジから紹介しよう。

1925年、日本初のプロレタリア政党、農民労働党が結成された(党首は浅沼稲次郎)。しかも、日本共産党とのつながりを疑われ、治安警察法の適用により結成即日解散命令を受けるという、プロレタリア政党は幕開けからして波乱に見舞われた。

この農民労働党から、3つの流れが生まれる。ひとつは共産主義に否定的な右派の社会民衆党、中道の日本労農党、そして左派の労働農民党である。

今日のバッジは、先日紹介した社会民衆党といわば兄弟関係にある(ただし、仲の悪い兄弟というべきか)労働農民党のバッジである。
労働農民党といえば、京都出身の山本宣治産児制限被差別部落問題、小作争議に関わり、1928年の第16回衆議院選挙で同党初の議席を獲得した。しかし当選後の1929年、治安維持法に反対するも右翼構成員により殺害された。享年39。
山本宣治の代表的な写真を見ると、これと同じバッジを胸につけているのが確認できる。

共産主義勢力の拡大に危機感を抱く田中義一内閣は、普通選挙実施と抱き合わせで成立させた治安維持法により、日本共産党労働農民党関係者が大量に検挙(3.15事件)、労働農民党は結社禁止処分を受ける。成立からわずか2年の短命に終わった。
解党後の労働農民党は、さまざまなプロレタリア政党に分かれつつ、戦後の日本社会党左派の源流となっていくのである。

というわけで、短命ゆえにおそらくはけっこうなレア物と思われる労働農民党のバッジ。歯車と星、麦の穂を描いた図柄で、社会主義シンボルが盛り込まれている。銀色の地に赤と黄色の七宝が鮮やかに映える。
安定感のあるデザインで、やや陳腐な感じも受けなくもないが、それは現在における見方に過ぎず、当時にあっては斬新なデザインであったかもしれない。
山本宣治も胸にしたバッジ、と思うと感慨深い。私の政党バッジコレクションの中でも貴重な一品である。