徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

中国 毛主席記念堂建設記念バッジ

イメージ 1

えーと、あれは1989年のことだったから、そうか、あれからもう18年もたつののだな・・・と回想に耽る今日は6月4日。

80年代末から90年代初めにかけて、ソ連・東欧社会主義国はバタバタと崩壊していって、本当にあっという間のできごとだった気がする。世界の歴史が、こうもどんどん変わっていくかと、その様子を目の当たりにしながら、呆気にとられているばかりだった。
まるでドミノ倒しを見ているようだったのう・・・と最近の若いモンに昔話を聞かせてやりたい気分だ。

かつてソ連と覇を競い合った一方の雄・中国でも80年代末には民主化運動が激化。あの天安門広場は学生たちのテントにほとんど占拠されていたのだ。うーん、今じゃ考えられんなあ。
そして、1989年6月4日、六四事件(天安門事件)が勃発。天安門広場を占拠した学生を、軍が強制的に排除。多くの被害者が出たとされるが、今も詳細は不明の部分が多い。
それにしても、今になってみると、あの民主化運動ってなんだったのかなーと思ってしまう。あの頃の激しさを思えば思うほど、あれがどこへ行ってしまったのか、不思議としかいいようがない。

以前、この事件で実力行使に出た部隊に贈られた首都衛士記念章を紹介したが、今日はその天安門広場にちなんだバッジを紹介しよう。

天安門広場の中央から少し南に見える正方形の建物は、天安門広場に行ったことのある人なら必ず知っている毛主席記念堂である。
内部には水晶の棺に永久保存処理された毛沢東の遺体が安置されており、無料で見学できる。
今や観光名所である。
イメージ 2
【画像:上空から見た天安門広場。中央やや下に見える正方形の建物が毛主席記念堂】

さて、毛沢東の死去が1976年9月9日。その跡を継いだ華国鋒は、毛沢東の偉業を伝えるための施設の建設を発表する。建設は1976年11月に始まり、翌9月9日、死去一周年記念日に完成した。
このバッジはその記念に作られたもので、裏面に「毛主席記念堂工程現場指揮部1976.11.24-1977.9.9」とある。

レーニン廟のレーニンの遺骸は埋葬した方がいいとかなんとか、ロシアではたびたび議論が起きているときくが、毛主席のほうは、たとえ中国共産党政権がどうなろうときっと安泰だな・・・と記念堂前に並ぶ観覧者の長蛇の列を見ていると、そんな気分になる。