徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 会津の悲哀 ~白虎隊出身、出羽重遠海軍大将の勲記~

温泉に行くのだ!と正月から決めてはいたものの、いざ行くとなると、サテどこがいいのやら。
特に温泉に詳しいわけでもない私としては、特にアテがあるわけでもなく、ネットで探してみるも、これだというものはなかなか見あたらないのであった。

それならば・・・と選んだのが福島の芦の牧温泉会津観光のついでに温泉に行くプランを立てた。
会津は私の家のルーツであって、祖父母や両親が会津について語るときは、なにかこう、曰く言い難い思いがこもるのだったが、関東地方に生まれ育った私にとって会津はほとんど未知の土地であって、その思いを共有できなかったとしても、まあ仕方ないよね。

会津を訪れるのは、子供の頃も含めてこれで3度目になるはずだが、雪が残る時期は初めてである。幸い天気はよかったのだが、薄暗くなってきたかと思うとすぐにチラチラと雪が舞い始めるのはいかにも雪国の気候である。降るでもなく、やむでもなく、いつも何となく雪がちらついている感じなのだ。

会津の市内観光は、会津若松城を中心に、白虎隊の悲劇で知られる飯盛山などを回った。
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飯盛山の白虎隊自害の地から見た会津若松城。木々の中央あたりに天守閣が見える)

白虎隊は、戊辰戦争のさなか、城が炎上していると見間違えて、19名の少年隊員が自害するのだが、早とちりといえば、結果的にいえばそうなってしまう。私も子供の頃から素直に感動できなかったのはそのせいも大きい。一種軍国美談調に語られるところも違和感を覚えていた。
が、こうして改めて飯盛山から城を見れば、手前の市街が燃えていたら城が燃えているように見えたとしても無理もない気もする。
白虎隊の少年たちが飯盛山に到着した時は、すでに戦況は会津軍側に圧倒的に不利であり、そもそもが少年や老人、女性まで駆り出さざるを得ない悲壮な防衛戦争である。絶望的心理が働いていたとしても無理はない。

当時の明治政府の会津藩に対する処置は極めて厳しく、会津人のプライドは大きく傷つけられた。「藩閥」というのが陰に陽に大きく国を動かしていた時代である。それによって利益を受ける階層がいるということは、つまり不利益を被る階層はさらに大きかったということである。

・・・というわけだが、会津出身者の会津に対する思いは、この屈辱的な歴史体験が大きく背景にあると私は思っている。たとえていえば、これも一種の民族教育といえるかもしれない。
会津人として誇りを持て」という教育の裏に、それによって屈辱をバネに生きてきた土地の歴史がある。というより、そうするしかなかったのではないか、と思えて痛ましい

さて、会津市内を巡っていて、ある資料館に出羽重遠(海軍大将)の資料が陳列されているのを見た。
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(出羽重遠の肖像。判然としないが、フランスのレジオン・ド・ヌール、大清帝国の双龍宝星勲章、日本では瑞宝章金鵄勲章、勲一等旭日章、旭日桐花章、その他従軍記章などが見える)

出羽重遠も会津藩士の家に生まれ、戊辰戦争時には白虎隊員として参戦したという。明治期の海軍は圧倒的に薩摩藩が強かった当時(陸軍は長州系)、出羽は日露戦争では海軍司令官をつとめ、のち海軍大将となる。薩摩藩出身者以外で大将になったのは彼が初めて、それも会津出身者であったのだからなおさら異色の存在である。

で、その勲記。
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まずは旭日桐花大綬章の勲記旭日桐花大綬章の本物はこちら)。
ここで、おや・・・と気づいた。調べてみると、出羽重遠が死去したのは昭和5年1月27日。勲記に見える桐花章の叙勲日と一致している。ということは死後叙勲らしい。
あれ、そうすると肖像写真に見えるこの桐花章は一体? 修正には見えないが・・・。

そして、その他の勲記。
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あまりに多いためか、巻物状になっている。こういう形にしてあるのは初めて見た。勲記というのは結構大きくてかさばるので、こういう形にしておくのは合理的だなあと思った。

おまけ。
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芦の牧温泉駅(会津線)にて、駅長のバスちゃん(♀)。撫でても触ってもまったく動ぜずひたすら昼寝(笑)。

なお、芦の牧温泉はとても良いお湯だった。ちらちらと雪が舞い込む露天風呂は最高。川岸の向こうに見える木々が、雪をまとってまるで満開の桜。