今日6月1日は、「徽章の日」。「気象の日」に因んで業界が制定したらしく、そんな決め方ってどうなんだという気もするが、全くの偶然、当ブログがスタートしたのも2005年のこの日なのであった。これってもしかしたらシンクロニシティ?
よくもまあ丸3年もこんなブログがよく続いたものと自分でも感心するが、アルファブロガーなど別世界、ひたすら自己満足だけでやってきたことが功を奏したのかしないのか、まあなんとか続くだけは続いているのも見に来てくれる閲覧者のおかげといえるだろう。
ブログネタには悩むことも多いが、おかげで改めて自分のコレクションを見直すキッカケにもなり、新しい発見があったりすることも実は多かった。やっぱり情報発信をすることは、自分のためにもなるのだなあと思ったものだ。
ブログネタには悩むことも多いが、おかげで改めて自分のコレクションを見直すキッカケにもなり、新しい発見があったりすることも実は多かった。やっぱり情報発信をすることは、自分のためにもなるのだなあと思ったものだ。
というわけで、今日は「徽章の日」にふさわしい?日本の徽章の歴史に関するものを紹介しよう。
国会議事堂のほど近くにある「憲政記念館」には、見学に訪れたことのある人も多かろうが、その中に歴代の国会議員徽章が展示されているコーナーがあることはあまり有名ではない・・・というよりそもそも関心ないのかなあ、みんな。
「非民主的な権威主義の象徴」「セキュリティチェックに不便(セキュリティチェックならIDカードの方がはるかに効率的)」などと批判を受けつつ、議会と共に歩んできた議員記章。俗に「金バッジ」などともいう。
ただ、いかに困ったモノであろうと、それをありがたがる心理が議員・国民の双方にある限りは、おそらくなくならないであろう、議員記章。その一方、イメージばかりが先行して、実際にどんなモノかを知っている人は驚くほど少ないのが事実だ。
ただ、いかに困ったモノであろうと、それをありがたがる心理が議員・国民の双方にある限りは、おそらくなくならないであろう、議員記章。その一方、イメージばかりが先行して、実際にどんなモノかを知っている人は驚くほど少ないのが事実だ。
さて、その昔、憲政記念館は私も見学に行ったことはあるが、バッジのコーナーは全然記憶にない。そこで2か月ほど前、思い立って写真を撮ってくることにした。
国会の議員章も時代によって様々なのだが、どういうわけかまとまった情報というのはあまりないようで、本当はそういう本があれば最高なのだが、ここは実物に当たってみることにしよう。こういうとき、威力を存分に発揮するのがデジカメである。
(憲政記念館正面)
国会の議員章も時代によって様々なのだが、どういうわけかまとまった情報というのはあまりないようで、本当はそういう本があれば最高なのだが、ここは実物に当たってみることにしよう。こういうとき、威力を存分に発揮するのがデジカメである。
(憲政記念館正面)
開館直後とあって、私以外に見学者はゼロ。あ、ここはもちろん無料で見学できます。
憲政関係資料の展示を横目に見ながら、バッジのコーナーを探す。おお、ハルピン駅で伊藤博文を撃った安重根の弾丸は、まだしっかり展示されているなあ(これは昔来たときもあった)。
(館内の様子)
憲政関係資料の展示を横目に見ながら、バッジのコーナーを探す。おお、ハルピン駅で伊藤博文を撃った安重根の弾丸は、まだしっかり展示されているなあ(これは昔来たときもあった)。
(館内の様子)
議場内のレプリカなどを見ながら進んだその先に、私が目指す、バッジをズラリと並べたガラスケースはあった。そこには、すべてのタイプの国会議員記章が展示されているのである。すばらしい。
説明書きには、議員記章の経緯について、こうある。
「議員記章(議員バッジ)
「議員記章(議員バッジ)
貴族院及び衆議院議員記章は、1890年(明治23年)、帝国議会開設とともに制定された。
その後、両院の議員記章は、貴族院は一度改定されただけであったが、衆議院は数次改定され、現在に至っている。
1947年(昭和22年)5月、日本国憲法の施行に伴い貴族院は廃止となり、参議院が開設され、参議院議員記章が制定された。その参議院議員記章も数回の改定を経て現在に至っている。
議員記章の帯用については、当初、その帯用は本人の任意であったが、1903年(明治36年)12月、衆議院では警備の必要から帯用もしくは携帯が義務づけられた。現在、衆参両院とも議員は、記章を帯用することになっている。(後略)」
その後、両院の議員記章は、貴族院は一度改定されただけであったが、衆議院は数次改定され、現在に至っている。
1947年(昭和22年)5月、日本国憲法の施行に伴い貴族院は廃止となり、参議院が開設され、参議院議員記章が制定された。その参議院議員記章も数回の改定を経て現在に至っている。
議員記章の帯用については、当初、その帯用は本人の任意であったが、1903年(明治36年)12月、衆議院では警備の必要から帯用もしくは携帯が義務づけられた。現在、衆参両院とも議員は、記章を帯用することになっている。(後略)」
では、1890年(明治23年)、帝国議会の誕生とともに制定された議員記章を見てみよう。記念すべき最初の議員記章がこんな形態であったとは、ほとんど知られていないのではないか。
(1890年制定。左が衆議院、右が貴族院。全体に退色している。)
(1890年制定。左が衆議院、右が貴族院。全体に退色している。)
比べてみて一目瞭然だが、最初期の議員記章は、現在のものとまったく形態が異なる。当時のモノは、今よりもずっと簡単な感じで、なんとなく勲章の略綬に似ている。が、この形はその後の改定によってすぐに姿を消し、次期の議員記章からは、まあ全体的には現在のバッジに近いタイプになっていく。
それにしても、ズラリと並んだ議員記章だが、こうも改定のタイミングがバラバラなのはなぜなのだろう?
バッジの制定は、衆議院では8回、参議院(貴族院)では7回行われていて、お互いの一致は初回の1890年と1947年を除き、全くない。
衆議院では戦前4回、戦後4回。ところが参議院(貴族院)では、戦前2回、戦後は5回である(初めの制定も含む)。
バッジの制定は、衆議院では8回、参議院(貴族院)では7回行われていて、お互いの一致は初回の1890年と1947年を除き、全くない。
衆議院では戦前4回、戦後4回。ところが参議院(貴族院)では、戦前2回、戦後は5回である(初めの制定も含む)。
まあ両院は別物だから、それはよいとしても、改定のタイミングもナゾでどういう必然があったのやらまったく分からない。
例えば戦後の衆議院では、改定時期は次のとおりだ。( )内は採用期間である。
1946年5月(1年)
1947年5月(2年)
1949年5月(5か月)
1949年10月(現用品なので、59年以上)
例えば戦後の衆議院では、改定時期は次のとおりだ。( )内は採用期間である。
1946年5月(1年)
1947年5月(2年)
1949年5月(5か月)
1949年10月(現用品なので、59年以上)
5か月しか使われなかったモノもあれば、現用品のように60年近くも使われ続けているモノがある。一体どういう理由によって改定されてきたのだが、さっぱりわからん。
今回掲載した最初期と現用のバッジでは、衆参(貴)では、基本的には同じ形で色違いという対照をなしているが、その途中はまったく対応していない。両院で、全然違うタイプのバッジの時期が多いのだ。
それに、なぜそのタイミングでその形のバッジが制定されたのか、その必然性もさっぱりわからない。
基本的にはどのバッジも、似たり寄ったり、としかいいようがないからだ。
それに、なぜそのタイミングでその形のバッジが制定されたのか、その必然性もさっぱりわからない。
基本的にはどのバッジも、似たり寄ったり、としかいいようがないからだ。
うーむ、どうもこれ、議員記章の改定には、大して合理的な理由は実はないんじゃないかという気がしてきた。
もし真相をご存じの方がいたら、ぜひご教示ください。
もし真相をご存じの方がいたら、ぜひご教示ください。