徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 紀元二千六百年宮崎県奉祝会特別会員徽章

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1940年11月当時。
1937年7月から始まった日中戦争は、すぐに中国を屈服させられるという日本側の見込みが外れて戦況は泥沼化し、丸3年を経過しても依然継続中。蒋介石政権は首都南京を喪失しながら重慶に遷都して抵抗を続けていた。そこで南京に汪兆銘による親日政権を誕生させ、「2つの中華民国」が対立していた。
国内では、1940年10月に大政翼賛体制が確立、戦争への国民総動員態勢がますます強まっていった。
さらに、日本は、中国を支援するアメリカ、イギリスなどとの対立が深まり、これから約1年後の1941年12月には真珠湾攻撃、太平洋戦争へ突き進むことになる。

この時、1940年=皇紀2600年の11月に行われた祝典は、まさに国威発揚の大イベントとなった。
日本各地で行われた記念行事の中で、特筆すべきは宮崎県の「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」、通称「八紘一宇の塔」の建設であろう。
今も宮崎市内にあって、私も仕事で出張の時、車から遠目に眺めたことがある。
高さ37m、石材は国内外の各地から集められた。設計者は、彫刻家の日名子実三。全体は御幣と盾を組み合わせた形をデザイン化し、4方には神像、中央の「八紘一宇」の文字は秩父宮の揮毫による。

この塔、写真で見ても、異様な雰囲気が伝わる。設計者の日名子実三の気迫であろうか。時代の空気であろうか。気迫があふれすぎて、どこか神がかったおどろおどろしさまで漂う。
なんでここまでやったのか・・・という気もするが、天孫降臨の地、宮崎県としては、そのプライドにかけてやらなければならなかったのだろう。
この塔の建設に当たっては、紀元二千六百年宮崎県奉祝会が主導した。塔の建設費は全国に募った浄財であったという。

さて、前置きが長くなったが、バッジである。
全体は八稜の神鏡の形で、八紘一宇の文字が篆書体で書かれている。飾りにつけられた五色の糸が、どこか祝事の雰囲気を醸し出す。
裏面には「紀元二千六百年 宮崎県奉祝会」の文字。また、桐のふたには「特別会員徽章 紀元二千六百年宮崎県奉祝会」とある。おそらく、一定以上の寄付金を納めた人に贈った記念品ではないかと思う。
金色の地に緑の透明七宝がよく映え、小さいながらもなかなかきれいなバッジである。
どこにもメーカー名はないが、箱の中敷きなどから見て、東京のメーカー製かもしれない。

今では、「八紘一宇の塔」は、戦争中の国家主義への反省からか「平和の塔」と呼ばれているが、終戦直後に一部変えられた塔の姿は原状に戻されているという。
私は残っていてよい思う。
壮大でおどろおどろしくて、理想も怨念も気迫もそのままに。時代の証拠が未来に残ること、それだけでも意義があるのではないか。
実は、私としては、規模はうんとささやかながら、私の数々のコレクションたちも、同様だと思っているのだけど。