徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

中国 (文革期)臨川県上山下郷知識青年代表会 出席証

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日本で中国関連の報道が増えてくると、当然、中国の歴史について基本的理解は不可欠である。しかし、とりわけ今の日本人にとって、理解しずらいのは、文化大革命についてではないかと思っている。断片的な解説だけで、とてもイメージがつかめるものではない。

党の最高指導者となった習近平にしても、15歳という若さで7年間も陝西省の寒村に下放され、洞窟住居に住み、農民に混じって肉体労働に従事した。いくら当時の下放運動でも、これは若すぎる。父親が党の高級幹部だったため、文革で失脚したのが影響したとされる。しかも、共産党員になれる年齢を過ぎても、入党申請はことごとく却下。厳しい生活と将来への絶望で、青春時代の苦しみが思いやられる。

この文革期の下放運動、上山下郷運動ともいい、本来は青年を労働で思想的に鍛え、地方の革命を進めるという名目だったが、本音を言えば都市の余剰労働力と地方の労働力不足を解消するため、1600万人もの都市青年が地方へ送られたのである。
中には革命の理想に燃えて地方を目指した者も多かったようだが、中国における「地方」の辺境ぶりは日本人の理解を超えるレベル。考えてもみてほしい。その辺の普通の高校生が、じゃあ今度からチベットの草原で羊飼いやってね、とか、雲南の密林開拓やってもらおうか、となったらどうだろう。
いくら若くったって、果たして適応できるだろうか。だが、そういう政策が、現実に行われたのである。下放先で壮絶な体験をしたり、危険な労働で死んだ者も多かった。

画像の胸章は、何年か前に四川省を訪れたとき、成都市の骨董市で買ったモノ。
臨川県上山下郷知識青年代表会 出席証」と書かれた赤いビニール製。
臨川県を調べると、江西省にその地名が見つかった。てっきり四川の地名かと思っていた。うーむ、すると、成都の青年が、下放先から持ち帰ったモノか。それとも全然関係ない流通ルートで成都までたどり着いたのか。まあ考えてわかるものではないけど・・・。
ここで「知識青年」とあるのは、都市からやってきた青年一般を指すので、特別な有能者というわけではない。ただこの呼称には軽く尊敬の念が感じられる。下放先となる地方は、とんでもない辺境も多い。都会から来た、というだけで何だか洗練された知識人と見られることもあったろう。

この代表大会がどのようなイベントなのかはまったくわからないが、何しろ文革は大衆動員政治なのでこの手の「大会」は、規模の大小を問わずどこでも無数に行われている。そこに農民代表、労働者代表、軍代表、などと混じって、下放青年代表が招待されたのだろう。田舎町の、おそらく規模も内容も大した政治集会ではなかったろう。

下放運動は、70年代後半には完全に終わる。元いた都会に帰った青年が多いが、様々な事情でそのまま留まった者もいる。15歳の若さで下放された習近平は、北京に戻り、1975年には名門精華大学に入学し、その後は順調にキャリアを重ねることができた。
果たしてこの胸章をつけた青年は、下放先でどんな体験をし、故郷には無事帰れたのだろうか、その後の人生はどうなったのだろうかなどと、ふと想像する。