徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 関東大震災救護記章(千住町、大正13年)

大震災救護記章

今日2023年9月1日は、関東大震災から100年目の記念すべき日である。あれから一度も首都直下型大地震は発生していないので、地震のエネルギーは100年分たっぷり溜まっているわけだ。当時より建物の耐震性や耐火性は間違いなく向上はし、消防や救急医療など体制も充実はしているものの、我々が日常生活で依存しているライフラインや情報インフラは桁違いに複雑化し、災害への脆弱性をさらしたまま発達を続けている。もしあの震災と同規模の大地震が起こったら、被害は関東地方だけではなく、全国に深刻な社会的経済的被害を及ぼすだろう。いやあ怖いなあ。

この節目の時にテレビやメディアでは「もし大地震が起こったら」という情報を流していて、私などは怖くてたまらず、最近、備蓄用ミネラルウォーターをたくさん買ってきたほどだ。こういう報道が防災意識を高める効果は、間違いなくあるのである。

 

ということで、今日は関東大震災にまつわるバッジを紹介したい。

オモテ面だけ見てもまったく正体のわからないバッジである。幸い、裏面には正体がしっかり書いてある。

大震災救護記章 大正 自十二年九月 至十三年二月 千住町

千住町とは、現在の東京都足立区内の町名である。

千住町では地震によりどんな被害を受けたのであろうか。調べてみると、足立区サイトで大正13年に刊行された「大震災千住町写真帖」デジタル版が全ページ公開されていて、大変参考になった。救護活動の詳細なデータが記載されている。

www.city.adachi.tokyo.jp

千住町における震災救護事務の概況」として、以下の記述がある(現代語訳版を紹介)。

大正12年9月1日、稀有の大地震が発災し、家屋の倒壊が非常に多く、東京市は大火災が起こり建造物はことごとく焦土となった。かろうじて本町に避難してきた者はおよそ十数万人に達し、千住町においてはすぐに職員を総動員し、不動院の境内に天幕を張り仮の事務所を設け、同時に緊急町会を招集し、救護方法を決議して救護を開始。まずは炊き出しを行い避難者の救助に着手した。4カ月にもわたった救護の内容をここに列記する。

9月2日~6日の間、炊き出しを実施
救助者の延べ人員は2万1,751人

9月6日の午後より救護事務所を千住町一丁目の千寿尋常高等小学校に移し、救助者が激増して炊き出しがとても間に合わず、救助が不可能になってしまったため在郷軍人分会と青年団の応援を得て、19カ所に給与所を設け、同日夕食から米、副食物の供与を行った。10月22日までこれを継続し、翌23日より千寿尋常高等小学校に引き上げ配給所を1カ所とし、10月31日をもって救助を終了とした。

これによる救助者は延べ253万4,329人。
なお、11月1日より避難者にして生計困難者に対し、12月末日まで白米を配給した。

ここには、救護活動の記録が載っていて興味深い。南足立郡医師会、徳島県救護班、警視庁救護班などの救護活動のほか、多くの団体人員が活動を展開した。なお、徳島県救護班は9月12日に来町し、9月17日まで救護活動を実施したとある。

また、「群医師会の救療状況」として次の記述がある。

大正12年9月1日の大震災により本郡医師会は人命救助が至急必要であると判断し、直ちに救護班3班を組織して救護診療を開始した。千住町に避難してきた罹災者の被害は惨状を極めており、本所区浅草区深川区方面のものが多かった。傷病者の数が非常に多く、各班員はほとんど寝食する間もない状況であった。その中でも衛生品の欠乏に際しては、本会は茨城県水戸市方面に職員を派遣し、消毒材料などの薬品を購入してきて救護の成果を上げたことの功は大きかった。

東日本大震災を体験してきた現代日本人にとっても、壮絶な情景が目に浮かぶようである。

その中で「布団の調製」という項目はちょっとユニークである。

避難者に配給すべき布団の材料を東京府より送付されたことで、これを調製するために専門家に命じようとしたが、多くの日数と経費を要し、配給上遅延の可能性があることから、郡視学は本町小学校長と協議した結果、生徒に対し義侠的観念と同情心の向上を図り経費の節約および、のちのち寒さが身に染みてきた避難者の寒苦を思い、少しでも早く配給しようという趣旨で尋常6年、高等科、補習科の女生徒および有志の婦人に託し、教員補助のもとに一日専門家を招聘して講習をしたうえで、調製に着手し、裁断、縫製、綿の入れ方の3部に分けて約一週間で調製を完了させた。

調製した布団の枚数 1,065組
調製に従事した人員
高等科生徒 166人
尋常科6年生徒 200人
篤志婦人 5人
教員 35人

尋常小学校6年生は、現在の小学6年生と同年齢である)

このように、膨大な被災者を支援するため、多くの人たちが涙ぐましい努力を行った様子がうかがえて興味深い。

ところで、このデジタル版「大震災千住町写真帖」を読んでいたら、最後に次の記述を発見した。

震災救護事務関係者感謝慰労会の景況

千住町ハ大震災ニ際シテ救護及警備等ニ従事シタル軍人分会員及青年団員、地方篤志家等ノ慰労ヲ兼ネ、大正十三年五月四日千寿第二尋常小学校ニ於テ感謝会ヲ挙行シ県警官衙及本町名誉職位並ニ在郷軍人会本部支部等ヨリ参列セラレ功労者ニ対シテ感状及記念品救護徽章記念写真帖等ヲ贈リ式後懇談会ヲ開キ連合警備隊ヲ解散シテ茲ニ全ク震災事務ノ終了ヲ告ゲタリ

表記が微妙に異なるが、ここに記載されている「救護徽章」というのが、画像の「救護記章」を指しているのは明らかであろう。すると、正確には「大正12年9月から大正13年2月」の期間における救護活動の功労者に対して「大正13年5月4日」に開催された「感謝会」において記念に贈呈されたバッジ、ということである。

発災から半年で「茲ニ全ク震災事務ノ終了ヲ告ゲタリ」というのは、被害の大きさからみて今の感覚からするとものすごく早く、本当なのかとも思うが、ともあれ感謝会が開催されるほどには復興が果たされたのであろう。

私のこのバッジも、この日の感謝会でだれかが受け取って胸に輝いていたのであろうかと思うと感慨深い。このバッジを受け取った人物は、いかなる活動に従事し、どんな光景を目にしたことだろうか。

ところで、こういう内容のバッジが何でこんなデザインになるのか。中央のマークは当時の町章らしい。周囲の月桂冠?やマルタ十字風のかざりは、なんかそれっぽい雰囲気を出すために深く考えないでデザインされたような・・・なんなんだろう。

 

今日は100年目の節目として、これまで当ブログで紹介してきた関東大震災関係の当ブログの記事を列記しておこう。

badge-culture.hatenablog.com

badge-culture.hatenablog.com

badge-culture.hatenablog.com

badge-culture.hatenablog.com