徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

中国 清華大学井岡山兵団の毛沢東バッジ

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思わず、ええーっ!とビックリ仰天の記事。

あの姚文元(ようぶんげん)が、死んだという。
74歳だというから、不思議じゃないんだが・・・ああ、ついに。
中国の新華社通信によると、2005年12月23日に病死。晩年は糖尿病を患っていたそうだ。

これで、ついに文化大革命末期、中国政治の中心であった「四人組」は全員故人となった。そもそも文化大革命の発端となった政治論文を発表したのが姚文元だったのだ。それはある歴史劇を批判したものだったが、もちろん周到な政治戦略だったのだが、後にここまでの大騒動に発展すると思った者は当時はいなかっただろう。

別に残念というわけじゃないのだが、なんかすごく感慨深い思いにとらわれる(などと言っても当時私はまだ生まれてすらいなかったんだけど)。
あの時代、紅衛兵運動に身を投じた青少年たちも、50歳を過ぎた。今は中国経済発展の核となってバリバリやっている世代だ。
そして、あの四人組までついに全員いなくなっちゃったのか。文革は遠くなりにけり。

姚文元は、毛沢東死去(1976年)直後に逮捕され、四人組裁判にかけられ、懲役20年の刑に服した。裁判中、江青は裁判官に「おまえこそ死刑だ」「反革命分子ども!」と怒鳴り暴れた。張春橋は問われても自分の名前すら答えなかった。王洪文姚文元はひたすら神妙に罪を認め、反省の意を表した。
1996年、釈放後には彼がひっそりとした市民生活を送っているとなにかで読んだことがある。

というわけで、今日は文革にちなんだバッジ、といえばもちろん毛沢東バッジを紹介しよう。
北京にある理工系名門大学、清華大学の「井岡山兵団(せいこうざんへいだん)」という紅衛兵組織が作ったバッジ。バッジにも井岡山が描かれている(井岡山とは1930年代に毛沢東らが築いた、江西省共産党根拠地。革命聖地のひとつであり、その名にちなんでいる)。
井岡山兵団といえば、北京の戦闘的で有力な紅衛兵組織で、1968年には対立派閥と激しい武闘を展開、流血の惨事を引き起こした。有名な「清華大学の百日戦争」だ。
(ちなみに、胡錦濤国家主席をはじめ、中央政治局常務委員会9人のうち4人が同大出身。)

こうした紅衛兵や労働者造反組織が作ったバッジは、「派章」といわれるが、このバッジは非常に有名組織のバッジなのでけっこう有名な一品である(同兵団の毛バッジには違うタイプもある)。