徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 勲四等瑞宝章

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気がつけばもうサクラの季節だ。土曜日、都内をウロウロしていたのだが、見上げるとサクラはもう3割くらいは開花しているように見えた。来週末はお花見の最盛期になりそうだ。
私は特にサクラが好きだってわけでもないが、それでも不思議とワクワクする。一斉に咲いたところを見ると、ちょっと得したような気分になる。

以上は余談。
春と言えば、わが国ではなぜか叙勲の季節で、通常は春秋にこのイベントが行われている。新聞でも誰が何等を授章したかが掲載される。

ところで、私には忘れられない思い出がある。生まれて初めて、ホンモノの勲章を見たときのことだ。
私の母方の祖父は、私が学生時代に亡くなったのだが、死後叙勲を受けたのだ。祖父はさる企業の社長と会長を務めたので、その功績に対する表彰だったわけだ。
葬式だか四十九日だかに親戚が集まったとき、叔父がみんなに披露したのだ。勲記(賞状のような授与証)には、首相の名前が記されていたことを覚えている。

なんの勲章だったか、肝心のことを忘れてしまったので、親に確認してみたが、やはり分からなかった。今度会ったら叔父に確認してみたいと思っている。
ただ、瑞宝章であったことは覚えている。おそらく、勲五等ではなかったかと思う。
初めて手にしてマジマジと眺めた勲章だったが、その時の印象は忘れられない。私にとって、それは相当意外なものだった。

感想を一言で言うと、・・・・・「あまりの安っぽさにビックリした」。

ところが、一般の人たちは、どうやら日本の勲章をとても芸術的で素晴らしいものだと認識しているようにみえる。実物をどこまで具体的に知っているかは疑問だが、漠然と、なにか立派で美しく、素晴らしいものと考えている。
実際そのように記述した本も多い。
「日本の勲章は、“勲章というより芸術品だ”といわれるくらい精巧で美しい」(「勲章」、富樫準二著)などという意見が代表的で、たいがい誇らしげに書かれているものが多い。

だが、私の受けた印象はそれとはまったく逆で、そのせいで、かえって忘れ得ぬ思い出になってしまったのは皮肉だ。
以来、勲章の話題が出るたび、あの時受けた印象を思い出し、なんとも居心地の悪いこのギャップについて考えてきた。

もしかしたら、と考えたこともある。あのように下位の勲章だからつまらないモノなので、もっと高位の勲章はきっとため息をつくようなすごいモノに違いない、と。
その想像も後に実物を見て、裏切られることになった。一等二等の等級であっても、私が想像したほど素晴らしいモノではなかった。
ただ、いくらかマシであったが。

要するに、みんな実物を知らないということなのだろう、と今では思っている。勲章関連本は、批判的立場よりも勲章称賛の立場から書いている人の方が多いので、勲章賛美ばかりを読まされることになる。「実際にはつまらないものである」などと正直なことを書いてくれる人はあまりいないのが現実だ。
誰でも、実物を見たら、きっとたいしたほどのモノではないことに気がつくだろう。だが、勲章を成立させている権威が、それを実際よりよく見せているに過ぎない。
スゴイのはモノそれ自体なのではない。そこに込められた思い入れこそがスゴイのだ。

勲章の意外な実態を知った私は、権威のなんたるかを知った気がした。

画像は勲四等瑞宝章で、綬(リボン)に丸い飾りがあることを除けば、五等とはまったく同一である。
中央の銀色の部分は、三種の神器のひとつ「ヤタの鏡」である。
勲四等瑞宝章といえばなかなか大したもので、大都市の市長クラスとも言われているようだ。

それでもこの程度だ・・・と言ってしまっては叱られるだろうか。