徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

中国 解放初期銀製毛沢東バッジ

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根が夜更かし体質の私にとって、連休というのはうれしい反面恐ろしくもある。
すぐに昼夜が逆転してしまうからだ。連休明けはつらい。
就職したての頃、新しい人間関係に馴染むのに平均的な人以上に時間がかかる私には、職場に慣れたり仕事を覚えたりするのに少々骨を折ったものだが、それ以上に大変だったのが朝起きて夜寝る生活だったと言わざるを得ない。
というわけで、3連休の終わりになると、こんな時間までバッジを眺めながらブログなどを書いているのだ・・・。

さて、昨日のシンポジウムの続きじゃないけど、文革について考える。
昨日の色々な人の反応や発言を聞いていて思ったのだが、どうも文革のとらえ方があまりに一面的に過ぎる人がいるらしいことだ。映画で出てきた66~67年頃の最初期における状況というのは、文革を1966~1976年の10年間ととらえたとき(文革の定義によって微妙に変わるのだが、これが一般的とらえ方である)、むしろ例外的な時期であったといえる。

例えば紅衛兵である。
文革期において、本当に紅衛兵文革の尖兵として働いていたのはごく初期段階であり、やがて毛沢東ですら紅衛兵活動を規制する方向に動く。下放運動が始まっていくのである。むろん紅衛兵の存在自体がなくなったわけではないが、60年代末以降は、紅衛兵文化大革命の中心勢力であった時代ではなくなる。
しかし、文革イコール紅衛兵、という理解が日本では浸透しきっている。まあそれほどインパクトがあったのは事実だが、「文革?ああ、紅衛兵が暴れ回ってたヤツね」という理解は、文革を総体的に眺めてみたときは、間違いとまではいえないにせよ、果して正しいといえるであろうか。
まあよその国のしかも40年も前の出来事に誰しもがそうそう首を突っ込んでいられるわけじゃないから、しかたないんだけど。そんなことをやってられるのは学者かさもなくばマニアである。

もうひとつ、毛沢東バッジについて。
文革期に爆発的流行を見せたこのアイテムは、これも文革の象徴である。
だが、この時期に毛沢東バッジが初めて出現したのではない。また、中国では政治的指導者の肖像バッジは、共産党に特有のものでもない。

これまで何点か示してきたが、例えば蒋介石バッジであり、さらにさかのぼると孫文バッジである。古くは袁世凱や、その他軍閥のバッジもある。
共和国となった中華民国は、皇帝に替わる政治指導者のイメージを民衆に広めるためのアイテムとしてバッジを利用したのである。毛沢東バッジも、その流れの一部であるに過ぎない。

さて、今日のバッジはかなり特異なシロモノで本音を言えば掲載するのがもったいない気持ちもあるが、せっかくなので紹介する。

解放初期の作と思われる銀製毛沢東バッジである。古い中国のバッジにはタガネでもって字や模様を刻んだバッジがあるが、これもその一種の手製バッジである。
なんともいえず味わいのある表情で、ひと目見て気に入ったのだが、このようなものは極めて珍しい。
いかにも中国風人物像でありながら、ちゃんと毛沢東の特徴を捉えている。特に口の下のイボまで表現されているのに注目したい。

むしろ、毛沢東バッジの歴史を考えるとき、それまでは多様な肖像の描かれ方をしていたのが、文革期にはいるとバッジは多様化するが肖像それ自体はパターン化が進行したことであろう。
ある意味、それは「洗練」ともいえるが、バッジ制作者の情熱は肖像に注がれるのではなく、それを除いた部分に集中していくのである。
そして、このような手描きのような味わい深い毛沢東バッジは、ほぼ駆逐されてしまうのである。

だから、私は文革毛沢東バッジは、表面的には爆発的増殖と繁栄であるが、内面的には空洞化であった気がしてならない。
なんだか、突如絶滅した恐竜の進化を見るようではないか。