徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 明治期勲一等旭日勲章

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鹿児島の話を続ける。

昨日も書いたけど、鹿児島といえば明治維新。維新動乱に興味を持っている私にとって、市内の史跡巡りはおもしろかった。
鹿児島は維新の勝者となりながら、後に西南戦争反政府軍として討伐される側となった。薩摩軍が最期に立て籠もった鹿児島の城、この街の中心地においても激戦が展開された。
そこにこの地域のおもしろさと悲哀を感じるのである。

さて余談。
明治維新に私が関心を持つのは、私の家がそもそも会津の出身であるということも一因のようだ。私自身は住んだことすらないが、親戚は会津系が占める。
私が子供の頃、新年に親戚が集まって、そこでテレビで維新モノの時代劇をやっていたりすると、「松平容保公(会津藩最期の藩主)は名君だった」とか、「薩会同盟を結びながら西郷隆盛会津を裏切った」とか、よくそんな話が出たことを思い出す(笑)。
今思うと笑い話のようだが、これ、ホントのことである。

小さかった私には理解できなかったが、父方の祖父は会津出身ということにプライドを持っていた。小学生の姉が「白虎隊」を「しらとらたい」と読んだりして祖父を嘆かせていたのを思い出す。

かつて、山口県萩市が、会津若松市姉妹都市締結を持ちかけたことがある。だが、会津若松市側の猛反発で反古になった。
ちょっと大人げない気もしないでもないが、何ら罪なくして賊軍として討伐され、街を焼かれ、新政府に差別され続けた怨念はなお深いのである。

だから、私も心ならずも賊軍呼ばわりされた側への同情なしには、維新を考えることができないでいる。
(ちなみに、靖国神社は官軍側の戦死者だけを祀っているが、それへの批判が少ないのが納得いかない。)

しかし、やがては私ももう少し大人になってみれば、もうすこし広く目が向くようになる。
維新の勝者であった長州や薩摩では、明治初期に大反乱を起こして討伐される側になり、土佐で起こった自由民権運動も政府に弾圧された。さらに、それらの戦いに勝利を納め、中央集権体制を築いた新政府指導者たちも、やがてはテロに倒れた。
死体の山流血の川に、もはや敵も味方の別はない。ただ痛ましいとしかいいようがない。

・・・余談が過ぎたが、画像を見てほしい。
明治期に作られた勲一等旭日勲章である。これも、昨日の画像と同じく黎明館で撮影したものだ。
現在のものとほとんど形を変えていない。中央の深く澄んだ赤い七宝も美しい。
ただ大きく異なるのが箱で、正章と副章が別々の箱に入れられているのがおもしろい。箱は黒漆塗りではなく革装丁のものである。留め金も特徴的だ。

箱蓋内側に「平田彦四郎造」の文字が見える。このころはまだ造幣局製でない。