徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

古書 「徽章と徽章業の歴史」 その2 創業者、鈴木梅吉のこと

初めて知る情報ばかりで、まったく目が開かれる思いでこの「徽章と徽章業の歴史」を読んでいたのだが、一番著者の筆に力がこもっているのが、徽章業創成期の民間経営主と職人の話についてだろう。

中でもこの業界の草分け的存在、日本帝国徽章商会についてのくだりは、著者のウラミツラミも重なって(笑)、気迫すら感じる。
創業者は飯田町(現千代田区)の元小間物商兼質屋兼運送店の経営者、鈴木梅吉
なお本書の著者、山田盛三郎は、実際にこの帝国徽章商会で大正10年から3年ほど働いた経歴を持つ人である。

明治18年。洋行帰りのある人物から、小学校の卒業生にメダルを贈ることを相談されたのが、この鈴木梅吉であった。メダルの原型彫刻に関心を持つ彫刻家と組んで、工場どころか機械もまったくない環境で、手打ち式原型で片面ずつ売って貼り合わせたメダルを苦心惨憺作り上げる。
すでに大阪の造幣局にはプレス機が導入されていたものの、民間ではまだまだ原型打ちといってもすべて手作業という時代だ。
実際その作品を見ても、すばらしい出来とはお世辞にもいえない。だが、これは記念すべき第一歩となった。
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これを機に、鈴木梅吉は徽章制作販売の事業へと踏み出すことになる。
明治から大正にかけて、日本赤十字社恩賜財団済生会大日本武徳会など(日本の徽章になじみのある人なら誰でも知っている)団体の創設、日清・日露戦争、軍隊の拡大、学校や会社の新設など、徽章業は需要が爆発的に増大していく。

帝国徽章商会は、日本唯一のメダル専門製作工場として、手回しプレスからガスエンジンフレクションへと機械を導入、これらの需要に応えていった。明治末から大正初期の最盛期には、番頭が10人、職人が70~80人、年期小僧が50人くらいというからなかなかの規模である。

・・・しかし、本書の著者にしてみると、正直あくの強い経営主には反発も大きかったらしい。同商会の経営主、鈴木梅吉については、その業績を称えつつも次のように述べている。
鈴木梅吉は、写真に残る風ぼうのように鋭い眼光、しかしその目は西郷隆盛の豪快な鋭さではなく長らく多くの人々に裏切られた警戒の影を潜めていると思われる。(中略)また人を見たら泥棒と思う習慣もこびりついていた。
となんだかネガティブな人物評である(なお、彼には過去に番頭に持ち逃げされたことがあったらしい)。
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鈴木梅吉


もっとも職人の方も、当時はあまりほめられたものではなかったようだ。
その頃の世間一般の職人の素質は、腕もよく行いも正しい人はごくまれで、一般は工場内で内職のものを作り、材料を持ち出すことは今でもたまにはあるが、それが職人の通例であり、尻尾を捕まれないようにやることをやることを一種の誇りとする悪習があった。
徽章制作は、その性質上、金銀の貴金属素材が必需品なのである。
また、「宵越しの金を持たない」どころか、前借り、借金、踏み倒しも当たり前のように行われていたといい、こういう労働者を雇う経営者に言わせれば、並ならぬ苦労もあったことだろう。
まあどっちもどっち、ということか。

それにしても職人の労働環境の様子を読むとものすごく劣悪で、徹夜の作業はしょっちゅう、プレスで指を落とす者や腕をなくす者も多かったというからすさまじい。

どちらに原因があるのかはともかく、職人の出入りは非常に多かったらしい。しかし、結果から見るとそれが徽章業の拡大につながったかもしれない。

帝国徽章商会は2代目で終わり、戦後の社員の一人が独立して買い取り、現在も東京飯田橋に日本徽章商会として営業している。
業界の草分けとして君臨した日本帝国徽章商会。この民間会社が輩出した多くの人材は、のちに日本徽章業界に大きな影響を与えていくのである。