徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 裁判員に記念バッジ贈呈!

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いよいよ今日から裁判員制度がスタートする。世論調査によると依然反対論も根強い中、わが国の裁判史上、画期的な制度が船出したことになる。完全なシロウトが、裁判で人を裁くのである。

断っておくが、基本的に私はこの制度に賛成だ。裁判官という狭い世界だけで生きる特殊な役人しか判決に関われない状況の方が問題が多いと考えるからだ。誰もが納得する裁判制度にするには、有効な方法である。たとえ、裁判員として選ばれた人たちに、個別には問題が残るにせよ。

この前、駅前で「つぶせ裁判員制度」という横断幕を掲げた団体が署名活動&意見アンケートを行っていたが、置いてあったボードの「賛成」欄にマークをつけてやろうかと思ったくらいだ。しなかったけどな。
それに、まあ反対したい人の気もわからないではないしね。

そんな私が目を惹きつけられた記事があった。
裁判員に記念バッジ」。
裁判員となった人に、裁判終了後、感謝の印としてバッジを贈呈するというのである。へぇー。

どんなバッジかはわからなかったので帰ってからネットで検索するとすぐ見つかった(画像のバッジ)。説明にはこうあった。
裁判員や補充裁判員を務めた人に贈られる記念バッジのデザイン。直径1.7センチの銅合金製。最高裁によると、判決が宣告され、裁判員としての職務が終わった段階で、裁判長や地裁所長らから手渡しで贈られる(時事通信社)」

さて・・・この記事を読んで、「徽章文化研究会」として感じたことがいくつかあるので記しておこう。

まず、記念にバッジを贈る、ということについては、正直「センスが古いのでは・・・」と思う。
30年くらい前のセンスを感じてしまった。少なくとも、最近のハヤリではないね。なぜなら、贈られた人が喜々としてこんなバッジをつけることはまずないだろう。
最近の日本人の感覚としては、なんやかやとバッジなどを胸にすることはなんだか気恥ずかしいことであり、それができるのは確固とした立場の人に限定されるのが現状だ。
例を挙げれば、議員や弁護士といった特権的な身分証明、社員や学生など、制服的な帰属証明などとしてのバッジだ。今の日本で日常使われるバッジといえば、ほとんどがこれらに属するのである。
そうでもなければ、今やれっきとした叙勲者ですら、勲章なんか恥ずかしくてつける機会がないというのが現実じゃないだろうか。
昔は、そうではなかった。古いバッジを見ていてつくづく思うのは、記念品としてバッジを製作し贈呈することは極めて日常的だった。ラジオ体操の皆勤賞から企業の勤続記念まで、あらゆる機会にバッジが贈られていたのである。それに近いセンスを、「裁判員バッジ」に私はふと感じたのである。

それとデザインだが、個人的趣味で言わせてもらえれば、これはいただけない
裁判員と裁判官を表す2つの円が交わった裁判員制度のシンボルマーク」なのだそうだが、うわー、ソフトで親しみやすさを追求しているあたりがイマドキすぎてかえってダサイ、という感じ。
ハッキリ言って、裁判員」と漢字3文字だけの方がいい。そういうブッキラボウさ、「これだけ分かればほかに説明いらないでしょ」みたいな問答無用な雰囲気の方が、公的機関が発行するバッジらしくて逆にアリガタミが増すんじゃないかと思うのだが、ああ、あんまり言うとあまりにマニア的な意見過ぎるような気もしてきたのでこれくらいにしておく。

銅合金製、だそうだが、色はよく分からない。裏面の構造からして、ピンバッジ式の留め具がつくタイプなのであろう。まあ確かにその方が安いし(たぶん)、男女の服を選ばない利点があるので合理的だ。
「直径1.7センチ」という大きさは、常識的なバッジの大きさとしては、これ以上大きくするとあまりに目立ちすぎるので、まあギリギリの線か。

ちょっとこだわりを感じるのが裏面の刻印で、「裁判所名と、その裁判所で何人目の裁判員かを示す5ケタの通し番号」が入るのだという。これによって、いかにも「一点モノ感」がアップする。それに、「裁判長や地裁所長らから手渡しで贈られる」という点も、「アリガタミ感」アップの方法として有効であろう。

まあ、くだらないことをいろいろ書いてしまったが、バッジなんて税金の無駄遣いという意見もあろうが、制度の普及定着を図るために、それほど金をかけずに作れるアイテムとしては、まあまあ妥当な線なのかもしれないという気もしてきた。

私も現物を見てみたいなあ。できれば欲しいなあ。
ただもう少し、あのデザインは何とかした方がいいよ。これは苦言として。