徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 真珠王・御木本幸吉に贈られた「鳥羽市名誉市民章」

伊勢神宮へ行った後、さらに南下して、車で鳥羽方面へ行った。
そこで、ミキモト真珠島へ寄った。このあたりは、今でも真珠養殖のイカダがそこここに見える。養殖真珠の発祥の地である。そして養殖真珠といえばこの人、教科書にも載った真珠王こと御木本幸吉である。苦心の末に養殖真珠の生産に成功したのは、明治26年1893年)のこと。
幸吉がいなくとも、いずれは誰かが真珠養殖に成功はしたであろうが、彼のすごいところは、基礎研究に留まらず、量産体制を築き、さらには養殖真珠のブランド化を確立したことだろう。東京に本店を構え、上海、ニューヨーク、パリ、ロンドンなどへの海外支店を展開していった。商才に優れていたのであろう。

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(御木本幸吉記念館)

ミキモト真珠島は、彼が真珠養殖を行った小さな島で本来は相島といい、現在は島全体が観光施設となっている。博物館やショップがあるが、今日紹介するのは、御木本幸吉記念館である。
御木本幸吉のゆかりの品などが展示され、彼の生涯を紹介している。生家は鳥羽の町のうどん屋で、この店の一部も再現されている。

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鳥羽市名誉市民章)

記念館内では、彼が授与された勲四等瑞宝章緑綬褒章や勲一等瑞宝章(死後叙勲)なども展示されているが、それ自体は珍しくないので、鳥羽市名誉市民章を紹介しよう。
贈 故御木本幸吉翁」とプレートにあることから、死後贈与らしい。調べてみると、鳥羽市に名誉市民条例ができたのは昭和42年9月。幸吉が死去したのは昭和29年だから、名誉市民条例ができるずっと前に亡くなっていたことになる。
世界的にも有名な郷土の英雄を無視するはずがない。というより、条例を制定しようとする段階から授与を想定していたのかもしれない。名誉市民条例の制定直後に死後贈与という形で贈ったのだ。確かに、プレートには「昭和42年10月」の文字が見える。鳥羽市名誉市民、第1号である。
勲章では死後叙勲という形はしばしばあるが、名誉市民制度などではどうなのだろう。まあこの辺は各自治体で取り扱いが異なるかもしれない。

鳥羽市の場合、幸吉を含め、これまで3人に名誉市民称号が贈られている。が、条例制定が昭和42年で、同年に1人目(御木本幸吉)、翌43年に2人目と3人目に贈られ、それ以後現在に至るまで、40数年間ゼロのままなのである。
うーむ、第1号がビッグすぎたのかなあ。
2,3号も1号に比べると、うんと小振りなのだが(といっては失礼か)。まあ、長年市議を勤めました、くらいじゃダメそうな感じだ。ハードルは高い。

さて、現物を見てみよう。
写真がぶれてて細部が見にくいのが残念。でも、幾層にも重なったツクリは凝っていて、白、水色と緑を基調としたデザインはなかなかきれい。略綬も派手で、かなり気合いが入っている。製作は造幣局だろうか。すぐ隣には、勲一等瑞宝章が展示されていたのだが、それにも見劣りしない感じ。
もうちょっと近くで見たかったな・・・。