徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

中国 上海日僑自治会出入証

イメージ 1

そうか、今日は終戦記念日か・・・ということで、親戚の話でも書く。

父方の親戚には、戦前中国にいた人が何人かいる。最近、そのうちの1人から話を聞く機会があった。彼の生まれは昭和10年。
家族とともに上海に住んでいたが、昭和20年3月、戦況が危ないというので日本に引き揚げることになったそうだ。彼の父は仕事で上海に残ったので、母親と兄弟とともに日本の親戚を頼って帰ったのである。
結果的には、これがラッキーだった。

日本への引き揚げというと、満州移民の悲惨な体験談をイメージしてしまうが、彼の話を聞くと、まだ終戦まで間がある時期だったせいか、驚くほど優雅な引き揚げ体験なのだった。
帰国ルートは、鉄道で上海から南京、北京と来て満州を通過して朝鮮半島を南下、釜山から下関に船で渡るというものだった。
その思い出を聞くと、南京や北京では豪華なホテルに泊まり、特に北京では故宮頤和園といった観光地巡りまでしたというのだから、悲惨なイメージとはほど遠い。釜山について、そこで出た食事のひどさに初めて食糧事情の悪さを実感したという。

一方、彼の父が帰国したのは終戦から数か月経った昭和20年の秋。こちらはさぞ大変だったろうと思うところ、これもそれほどでもなかったらしい。上海は比較的治安も保たれており、船で大量の日本人が引き揚げたのである。

さて、今日のバッジは、そんな戦後上海残留日本人に係わる一枚。
上海日僑自治会出入証」である。上海日僑自治会というのは、終戦後上海に残留した日本人による組織で、まさに読んで字の通り日本人の自治会である。魯迅らと交流のあった書店主、内山完造も、この時期上海日僑自治会の代表委員を務めた。
そもそもこの「日僑」なる言葉はあまり日本人にはなじみがないが、在外中国人を「華僑」と呼ぶのと同様、「日本国外の日本人(この場合は在華日本人を指す)」、というだけのニュートラルな単語である(差別的なニュアンスはないので念のため)。

バッジには、「中華民国三十四年度佩用」とあり、つまりは昭和20年のモノである。「出入証」とあるからには、どこかの出入り許可の目印として使われたはずなのだが、それは不明。収容施設みたいな場所への出入りの際に使われたモノではないかと想像している。それにしても、こうした目的でバッジがきちんと作られているあたりに、上海日僑自治会の存在感を感じる(ただし安価なツクリのバッジではある)。

このバッジは日本で偶然見つけて買ったモノで、つまり生きて日本に帰れた人の持ち物である。
語り手の親戚は、大都会上海でスチーム暖房、水洗トイレ完備にピアノまで置かれた洋風建築に住み、何不自由なく暮らしてきた人である。それが日本に帰ったとたん福島の地方都市に居を移すことになった。その差たるやまさに「別世界だった」。
このバッジの持ち主がいかなる境遇の人物かは不明だが、どんな人生ドラマを体験してきたのかと、見ていてつい想像を巡らしてしまうバッジである。