徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

フランス 第10回(1914年)世界大会バッジ 幻のパリ大会

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公私ともに多忙、というほかないのが現状で、こうしたブログを書こうという気になるのもものすごく久しぶりな気がする。もはや懐かしい気分すら覚える。

さて、パリで同時多発テロ事件が発生してから1か月あまり。あれは、ひどい事件だった。もし日本であんなことが起こったらと想像するだにぞっとする。
今日紹介するのは、そのパリの古い記念バッジである。

これまで当ブログでは数々のエスペラント世界大会の記念バッジを紹介してきた。これは最近手にいればバッジで、「Xa KONGRESO PARIS(第10回大会 パリ)」、「MCMXIV(1914)」の文字、エスペラントの5角星と「E」のシンボルからも明らかである。
つまり、エスペラント第10回世界大会(1914年)のものである。いまから101年前のものである。

しかし、このエスペラント第10回世界大会というのは、実は幻の大会であったのだ。
この年の6月28日、セルビア民族主義者のガヴリロ・プリンツィプがオーストリア皇太子を暗殺。これを機に第一次世界大戦が勃発、ヨーロッパ中が戦乱に巻き込まれることになった。
エスペラント第10回世界大会は、パリで8月1日に開会式を迎える予定であったが、この情勢を受けて急遽中止となり、すでに集まっていた参加予定者は帰国するほかなかった。エスペラント創始者であるザメンホフ自身も同様であった。

エスペラント世界大会は、1905年から現在に至るまで毎年開催されているが、開催できなかったのは、この1914年が始めてであった。翌1915年の開催国はヨーロッパを離れてアメリカのサンフランシスコで開催されるが、参加者は歴代最低の163人。1916~1919年の開催は中断された。

とにかく、初めこのバッジを見た時は信じられない気がした。中止になった大会のバッジがなぜ存在するのか?
しかし、よく見れば、不自然ではない。第1次大戦の開戦状況や大会出席者の動向から見ても、中止が決まったのは、本当に8月1日の開会直前であったらしい。それならば、すでに記念バッジができていても不思議ではない。
また20世紀初頭のこの時代にも、エスペラントの世界大会バッジは毎回作られていることもわかっている。10回大会でも間違いなく作られていただろう。

だとしたら、すでに作ってしまったバッジはどうしたのだろう?想像するほかないが、大会主催者は、とりあえず集まった参加者に配ったのではないか。とすれば、虚しく帰国していった参加者が手にした1枚が、このバッジなのだろうか。
だとしたら、これはけっこうドラマチックな歴史の一品だ。少なくとも私にとっては。

一応、ホンモノか否かという検討も必要かもしれない。私も一瞬それを考えた。
が、ルーペで詳細に見ても打刻の跡は鮮明で、とてもニセモノとは判断できない。全体の雰囲気もこの時代のものと違和感はない。そもそもこんなモノのニセモノを作る自体信じられず、作ったとしても値段が安すぎるので全く元が取れないのではないか。状況からしても、ホンモノと判断する方がずっと自然であろう。

上部の幅広の穴は、おそらく短いリボンを通し、そのリボンをピンで服につけたはずだ。これまで紹介してきた世界大会バッジの中にもそのようなタイプのモノは数ある。リボンの色は間違いなくシンボルカラーの緑色だったに違いない。

バッジには、パリの名所が描かれている。左に見えるのはエッフェル塔、中央にはセーヌ川に架かる橋、右側のはノートルダム大聖堂であろう。打刻の深さで、風景の遠近感を表現しているのが巧みだ。

私のコレクションには多くの古いバッジがある。今はただのコレクションの一部だが、このバッジが私の元に来るまでどのような人の手をわたってきたのか、不思議な気分に陥る。

100年前のパリ。誰がもらったバッジだったのか、これも。