徽章はバッジにしてピン

世界の徽章文化を考察するブログ。というか、バッジが大好き。コレクションを紹介したり、バッジに関する情報を考察したり。実用性皆無、実生活への寄与度ゼロ保障のブログです。

日本 社会大衆党党員章 ~浅沼稲次郎の出身地、三宅島訪問記~

社会大衆党 党員章

記録的に暑かったこの夏のイベントといえば、三宅島に行ってきたことである。ここ数年伊豆諸島を訪れており、これまで行ったことのない三宅島に行こうと急に思い立ったのであった。

溶岩で覆われた阿古地区。島中央部を望む。かつてここにも集落があった。

東京竹芝桟橋を夜間に出港した船は、朝5時に三宅島に到着。片道約6時間、結構遠いのである。船の中のベッドは意外と快適で、ぐっすりと休むことができた。

伊豆諸島は、どれも火山の島である。特に三宅島は2000年の噴火から4年間以上全島民の島外避難が行われたほど、火山活動が激しい。今も火山性有毒ガスの懸念から島中央部(雄山)への立ち入りが規制されたままだ。

そのため、島内観光といえば、何よりダイナミックな火山活動の痕跡である。島西部の阿古では1983年の噴火により、溶岩で押しつぶされた小中学校の跡を見ることができる(この周辺は遊歩道として整備されている)。

夏は海水浴場がにぎわう。どこも溶岩がじゃりじゃりとした黒い浜である。海はきれいで、噴火活動のせいで変化にとんだ風光も楽しめる。しかし、その火山はまた、島民の生活に大きな被害も与えてきたのである。この島に暮らす宿命とはいえ、その苦労に思いをいたさざるをえない。

さて、三宅島は、実は浅沼稲次郎の出身地で、生家が今も残っている。行くことを決めるまで私はこのことを知らず、大いに驚き、一層島を訪れるのが楽しみになった。

以前、当ブログで書いたとおり、私は彼のサイン色紙を持っている(古本屋で買った)。

浅沼稲次郎の生家(神着地区の児童公園内にある)

浅沼稲次郎は、明治31年にこの島に生まれた。生家は島北部の神着地区にある。今は児童公園の一画に立っており、そう古い感じもしないので、幾度も改築されてきたのであろう。生家の脇には銅像が立っている。一応集落のメインストリートには案内表示もあったが、生家自体にはなにも目印がなく、あれっここかな?という感じなので訪問する人はちょっと注意した方がよい。

生家の脇に立つ銅像。昭和54年建立。

生家の近くには銅像が立っており、脇の銘文には次の文字が見える。

浅沼稲次郎先生は、明治三十一年この地に生まれ、早稲田大学を卒業した。この三宅島をこよなく愛し、帰省の都度の姿は今も島民の記憶するところである。

大正十四年農民労働党の書記長に推され、その後東京市会議員、都議会議員に当選し、さらに国会議員にえらばれること九回、また昭和二十五年、日本社会党委員長に任じ、国政に貢献した。

大衆政治家としての姿勢を貫いた先生は、国民に敬愛され、島民の等しく誇りとするところである。惜しくも志を残して昭和三十五年日比谷公会堂において、不慮の最期を遂げた。

          享年六十一歳

 

          昭和五十四年六月

          故浅沼稲次郎先生銅像建立世話人

 

 

ということは、この銅像はあの衝撃的なテロ事件から19年後に作られたものなのか。政治テロによる殺害ではなく、あえて「不慮の最期」という表現がやや気になった。

私は少し感慨深い気持ちに浸りつつ、セミの声を浴びながら、木陰で汗をぬぐい佇んでいた。八丈島もそうであったように、三宅島でも聞こえてくるのはなぜかツクツクボウシばかりであった。

浅沼家は土地の名主であったようだが、もともと流刑地でもあった三宅島は農業にも向かず、裕福な土地ではない。内地に進学した浅沼少年が労働運動に関心を持つようになったのは、島育ちの体験と切り離せないだろう。この人は生涯にわたって労働運動には取り組んでいるが、決して共産主義者ではないところにも人柄が表れている気がする。

当地を訪れたとき、浅沼姓がここでは非常に多いのが印象的であった。ランドリーアサヌマ、(有)浅沼教材店など、集落のあちこちで見かけることができる。浅沼稲次郎とこの島との繋がりを実感した。

 

さて。

今日紹介するバッジは、社会大衆党の党員章である。彼も身につけたかもしれないと思うと感慨深い。五角星と打ち砕かれた鉄鎖が描かれたバッジである。

社会大衆党は、1931年、離合集散を繰り返すプロレタリア政党が大同団結した政党で、二大政党に加えて第三極を形成する存在となった。戦前プロレタリア政党の中ではメジャーな存在といえる。が、結局は体制翼賛体制の中に呑み込まれていった。

 

この他、このブログでは関連バッジとして、以下を改めて紹介する。

まず、1926年に成立した労働農民党関係である。統一的プロレタリア政党という意味では浅沼が参加した社会大衆党の前身的存在といえる。

badge-culture.hatenablog.com

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そして、死去後葬儀関連記念品として作られたであろうデスマスクバッジ

badge-culture.hatenablog.com

島には郷土資料館があって、一応浅沼稲次郎コーナーもあることはあるのだが、正直あまり見るべき展示品がないのが残念である。故郷ならではのゆかりの品などが残っているかもしれないと思うので、なんとか収蔵につとめてほしいと切に願う。

日本 東京大正博覧会の審査官・審査主事徽章(大正3年)

東京大正博覧会の審査官・審査主事徽章

2025年に開催される大阪万博が、危機的な状態にあるという。開会まであと1年半というのに、まだ肝心の工事がほとんど進んでいないのである。会場となる夢洲の環境(脆弱な土地条件、アクセスの悪さ)に加え、建設業界の人手不足、資材高騰など、問題山積で果たして無事予定通りに開会できるかが懸念されている。

どれも今になって初めて発生した事態でもなかろうに、と素人目には見えるのだが、さあどうなるか、日本の政治中枢をも巻き込んでこれから大きな騒動になりそうである。東京オリンピックでは、準備段階から開会直前まで、まさかと思うような問題が頻発してさながら壮大なコントを見ているような気分になったことを思い出す。大阪万博も同じような展開を見せていくのだろうか。とても気になる。

さて、そんな問題をはらんだ大阪万博に対する批判も高まりつつある。そもそもの話、今の時代「万博ってやる意味あるの?」という疑問がまた盛り上がっている。万博の歴史を見れば、帝国主義時代における列強各国による自慢大会のような色合いがあったのは間違いないだろう。現代人が万博の意義を信じられないとしても当然ではないか。

万国博覧会だけでなく、19~20世紀は博覧会が大流行した時代であった。日本でも首都だけでなく各地で様々な博覧会が開催された。

そして、そのたび様々な徽章が製造されてきたので、私のコレクションには、かつて開催された博覧会バッジが多く集まっている。


そんなうちのひとつを紹介しよう。

東京大正博覧会の審査官・審査主事徽章である。

東京大正博覧会は、大正3年3月から7月にかけ、東京府の主催により、上野公園、不忍池周辺を中心に開催された。

この東京大正博覧会よりも前に、明治以来開催された主な博覧会を列記する。
第1回勧業博覧会(明治10年、上野)、第2回勧業博覧会(明治14年、上野)、第3回勧業博覧会(明治23年、上野)、第4回勧業博覧会(明治28年、京都)、第5回勧業博覧会(明治36年、大阪)、東京勧業博覧会(明治40年、上野)

上野は、博覧会の会場としてはお決まりの場所だったのである。

この東京大正博覧会とはいかなる博覧会であったのか。

東京府として本博覧会を開催する趣旨は、殖産興業の進歩開発を促すにあるは勿論なるも、第一に大正御即位式を紀念し、併せて我帝国の改元に伴ふ万般の進歩発達を図りいささかなりとも此大正の御代に報ひ奉らんとするの赤心より企図せられたのである。(中略)故に吾々国民は主催府たると賛同府県たるとを問はず、官民を問はず、苟も我帝国の臣民たるものは、この目出度き大正博覧会の開催を賛同し、富国強民の目的を貫徹せしめることにつとめねばならぬ

(「東京大正博覧会遊覧案内」大正博の趣旨)

会場には数多くの陳列館(現代風に言えばパビリオン)が立ち並び、主な陳列館は、第1会場(上野公園)では、工業館3棟、鉱山館、林業館、教育学芸館、水産館、美術館、拓殖館、朝鮮館、東京市特設館、日本体育館、協賛館、迎賓館、園芸館、活動写真館など。第2会場(不忍池周辺)では、農業館、運輸館、染織館、外国館、動力館、機械館、台湾館などである。さらに第3会場が青山練兵場にもあった。

出品物はジャンルごとに14部180類に分かれて展示された。

第1部教育及び学芸、第2部美術及び美術工芸、第3部農業及び園芸、第4部林業、第5部水産、第6部飲食品、第7部採鉱及び冶金、第8部化学工業、第9部染織工業、第10部製作工業、第11部建築及び装飾、第12部機械船舶及び電気、第13部土木及び運輸、第14部経済及び衛生、約20万点の出品があったというからこれだけでも相当な規模だったことがうかがえる。

ところで、この博覧会の様子を調べようと「東京大正博覧会観覧案内」という観光案内用の冊子の目次を見ていたら、「奇抜なる美人島旅行館」「物凄い幽霊美人」だの、「南洋館では土人が踊りだす」だのという文字が目に飛び込んできた。なにこれ?

一応言っておくと、これらは博覧会の正規のパビリオンではなく、場内の遊興的施設なのだが、これがなかなか、なんというかすごい。

やはり気になるのが「美人島旅行館」で、上記冊子によると、次のように説明されている。

(前略)就中第一に挙げねばならぬのはこの美人島旅行館でせう。「数千尺の天空に美人飛ぶ、この種絶世の大奇観」と大きなビラを市内到る処の要所々々に掲げて博覧会のまだ始まらぬ中からしきりに人の気を唆つて居りました、挑発的の色彩を放つたその建築に、東叡山上美人島出現という大看板を懸けて好奇心を誘ふ事に於いてはこれが第一であります。

というから、市中ではかなり宣伝されていたらしい。

50余名の盛装した美人を使つて或は井底に遊泳する魚族中に花の姿を現はすかと思ふと、月の世界に旅行するものもあります、そして館の真中には美人島女王の宮殿が出来てゐて、ここには天下一品の美人を選んでそれをこの宮殿の女王とするのであります。

と、なんだかよくわからないがくだらなそうな雰囲気だけだけは伝わってくる

前に述べました宮殿に鎮座するときの女王の服装は、純日本風神代の女装でありますが、これが幻影一転して忽ち渺茫たる海上となると、洋装の海神と化して天に昇るという趣向であります。さらに女王宮殿の裏手に廻りますと美人島旅行中最も凄愴な趣向を凝らした幽霊美人というのがあります。荒涼たる原野、墓石累々として倒れたる上に窶れはてた白装の美人が現はれ、路行く人を見てニヤニヤ笑ひ、忽ちにして煙の如く消えるといふ物凄いものなど、実に奇々怪々な珍趣向のものが多いということであります。

というのだから、どうにも見てみたいような見たくないような気にさせられる。

さらに「南洋館」。

マレー連邦、英領植民地、スマトラ、ジャワ、セレベス、ニューギニア、フイリッピン諸島などの農林水産物、水産及び鉱業、地理統計表などを陳列し、

・・・とここまではよいのだが、

かの地の土人を呼んできて日常生活ぶりを見せて居ります。また余興としては、土人特有の歌舞音曲を演じせしめるということであります。

平然と土人呼ばわりするくらいは実はまだましで、「東京大正博覧会実記」では、

過日食人種(蘭領ボルネオ島ダイヤーク人種)の一隊此館に到着して余興の手踊りその他珍妙な舞踏等を見せている。

食人種などと紹介している(本当か)。

現在ならこれは大炎上どころではすまないであろう。コンプライアンス上の問題があまりにも多すぎるのである。

余談が過ぎた。

膨大な出品物の審査にあたったのが、審査部の職員であった。「東京大正博覧会職制」では、審査に関する職員を次のように定めている。

第六条
東京大正博覧会出品審査ノ為メ左ノ職員ヲ置ク
審査総長
審査部長
審査官
審査嘱託
審査主事
審査書記
審査補助
第七条(略)
第八条
審査総長ハ審査事務ヲ総理ス
審査部長ハ審査総長ノ命ヲ承ケ審査事務ヲ分掌ス
審査官審査嘱託ハ審査総長ノ命ヲ承ケ審査二従事ス
審査主事ハ審査総長二隷属シ審査事務ヲ調理ス
審査書記ハ上司ノ命ヲ承ケ審査二関スル庶務二従事ス
審査補助ハ上司ノ命ヲ承ケ審査ヲ補助ス

(またまた余談ながら、いま、この職制の記載を書き写していて、当時の行政文書にしばし感じいってしまった。「総理する」「分掌する」「従事する」「調理する」という緻密な使い分けが実に奥深い。一体、現在の行政文書でここまでの書き分けをするであろうか。)

審査官には、西洋画の黒田清輝藤島武二中村不折、建築家の伊藤忠太や彫刻家の高村光雲朝倉文夫、陶芸家の宮川香山などの名が見える。当代一流の専門家が審査にあたった様子がうかがえる。さっきの「幽霊美人が云々」とのギャップが激しい。

優秀な出品に対する褒賞には5種あり、上位から、名誉大賞牌、金牌、銀牌、銅牌、褒状とされ、各賞牌には賞状が付属した。褒賞授与式は大正3年7月10日に挙行された。

さて、やっとバッジの話である(博覧会の報告書や案内冊子など読んでいたら非常に興味深く、ここまで来るのにえらく時間がかかってしまった)。

画像のバッジは、裏面に「東京大正博覧会」と文字があり、箱に「審査官審査主事徽章」とあるので、その正体が知れる。実際の審査に従事した審査官と、審査にかかる事務処理にあたった審査主事が身につけていた徽章である。

この徽章も非常に美しく、透明感のある赤、空色、黄の七宝が鮮やかで、鏡のように平滑に研磨されている。

画像を見ていて気が付いたのだが、このバッジ、「大正」の文字が図案化されていることに気が付くだろうか?

ふた裏に朱印が押してあって、安藤七宝店の作である。

ちょっと面白いのが、この博覧会では安藤七宝店の創始者にして当時代表の安藤重兵衛委(重寿)も出品し、銅牌と褒状を獲得している。ついでなので、七宝部門の審査講評も見てみよう。

七宝ハ今回ノ出品其数量ニオイテ甚タ多カラスト雖モ其作風ノ多方面ニ捗リ意匠ノ多趣ナルヲ見ル近来工芸界ノ一部ニハ単ニ時好ヲ趁ヒ極メテ浅薄ナル新思想ニ迎合セントスル結果自ラ軽浮ナル印象を与フル作風ヲ生シ崇視スヘキ妙技ノ製品稀少ナルノ秋ニ際シ荘重ノ感ヲ起コサシムル作品ノ多数ヲ得タルハ殊ニ快感ヲ覚ユル所ナリ然レトモ製技ニ顔料ニ釉薬ニ将タ意匠図案ニ尚改良発達ノ余地アルハ固ヨリ言フヲ待タス(「東京大正博覧会出品審査概況」第2部美術及工芸 第二十四類)

と出品者を激励している。なお、七宝家として有名な濤川惣助もこの博覧会に「鮎之図花瓶(銀地、七宝)」を出品し、銀牌を獲得している。

私としては、来る大阪万博には関心がわかないが、いろいろ調べてみて、この聖も俗もごった煮の、百年前の博覧会には大いに関心が湧いた。調べていてとてもおもしろかった。

他にも博覧会関連バッジはいろいろ手元にあるので、また取り上げてみたくなった。

番外編 10万アクセス達成(4年かかって)

今回は完全に番外編です。

yahooブログの閉鎖に伴い、2019年8月にHatenaBlogに移行してから4年、2023年8月に10万アクセスを超えました。気が付くのが遅かったです。

このブログは、もとよりアクセス数は極めて少ない。いや筆者自体が初めからアクセス自体をほとんど期待していないこともあって更新頻度といい、ネタの内容自体といい、読者を意識しないでやってきたせいです。

ざっと平均して1日当たり70弱のアクセス数。もうほかのブログと比較する気にすらなりませんね。それでも休み休み、2005年から続いているのだからまあそういうブログもあってもいいさと勝手に自己満足でやってきました。

HatenaBlogに移行してからの4年間でコロナ騒動があり、東京オリンピックがあり、ロシアのウクライナ侵攻があり、世の中ではまあいろんなことがありました。個人的にも、そうだなあ、思い返すと・・・まあなんとかやってきました。なんだかんだ言って、私など楽しくやっている方かもしれません。

そうそう、この間ささやかながら良いコレクションにも恵まれました。私がコレクションにかけられる金額は微々たるものですが、おかげでさらなる徽章文化の発見があったように思います。

当ブログでは、今後も(細々と)その成果をご紹介できたらと思っています。

よろしくお願いいたします。

日本 関東大震災救護記章(千住町、大正13年)

大震災救護記章

今日2023年9月1日は、関東大震災から100年目の記念すべき日である。あれから一度も首都直下型大地震は発生していないので、地震のエネルギーは100年分たっぷり溜まっているわけだ。当時より建物の耐震性や耐火性は間違いなく向上はし、消防や救急医療など体制も充実はしているものの、我々が日常生活で依存しているライフラインや情報インフラは桁違いに複雑化し、災害への脆弱性をさらしたまま発達を続けている。もしあの震災と同規模の大地震が起こったら、被害は関東地方だけではなく、全国に深刻な社会的経済的被害を及ぼすだろう。いやあ怖いなあ。

この節目の時にテレビやメディアでは「もし大地震が起こったら」という情報を流していて、私などは怖くてたまらず、最近、備蓄用ミネラルウォーターをたくさん買ってきたほどだ。こういう報道が防災意識を高める効果は、間違いなくあるのである。

 

ということで、今日は関東大震災にまつわるバッジを紹介したい。

オモテ面だけ見てもまったく正体のわからないバッジである。幸い、裏面には正体がしっかり書いてある。

大震災救護記章 大正 自十二年九月 至十三年二月 千住町

千住町とは、現在の東京都足立区内の町名である。

千住町では地震によりどんな被害を受けたのであろうか。調べてみると、足立区サイトで大正13年に刊行された「大震災千住町写真帖」デジタル版が全ページ公開されていて、大変参考になった。救護活動の詳細なデータが記載されている。

www.city.adachi.tokyo.jp

千住町における震災救護事務の概況」として、以下の記述がある(現代語訳版を紹介)。

大正12年9月1日、稀有の大地震が発災し、家屋の倒壊が非常に多く、東京市は大火災が起こり建造物はことごとく焦土となった。かろうじて本町に避難してきた者はおよそ十数万人に達し、千住町においてはすぐに職員を総動員し、不動院の境内に天幕を張り仮の事務所を設け、同時に緊急町会を招集し、救護方法を決議して救護を開始。まずは炊き出しを行い避難者の救助に着手した。4カ月にもわたった救護の内容をここに列記する。

9月2日~6日の間、炊き出しを実施
救助者の延べ人員は2万1,751人

9月6日の午後より救護事務所を千住町一丁目の千寿尋常高等小学校に移し、救助者が激増して炊き出しがとても間に合わず、救助が不可能になってしまったため在郷軍人分会と青年団の応援を得て、19カ所に給与所を設け、同日夕食から米、副食物の供与を行った。10月22日までこれを継続し、翌23日より千寿尋常高等小学校に引き上げ配給所を1カ所とし、10月31日をもって救助を終了とした。

これによる救助者は延べ253万4,329人。
なお、11月1日より避難者にして生計困難者に対し、12月末日まで白米を配給した。

ここには、救護活動の記録が載っていて興味深い。南足立郡医師会、徳島県救護班、警視庁救護班などの救護活動のほか、多くの団体人員が活動を展開した。なお、徳島県救護班は9月12日に来町し、9月17日まで救護活動を実施したとある。

また、「群医師会の救療状況」として次の記述がある。

大正12年9月1日の大震災により本郡医師会は人命救助が至急必要であると判断し、直ちに救護班3班を組織して救護診療を開始した。千住町に避難してきた罹災者の被害は惨状を極めており、本所区浅草区深川区方面のものが多かった。傷病者の数が非常に多く、各班員はほとんど寝食する間もない状況であった。その中でも衛生品の欠乏に際しては、本会は茨城県水戸市方面に職員を派遣し、消毒材料などの薬品を購入してきて救護の成果を上げたことの功は大きかった。

東日本大震災を体験してきた現代日本人にとっても、壮絶な情景が目に浮かぶようである。

その中で「布団の調製」という項目はちょっとユニークである。

避難者に配給すべき布団の材料を東京府より送付されたことで、これを調製するために専門家に命じようとしたが、多くの日数と経費を要し、配給上遅延の可能性があることから、郡視学は本町小学校長と協議した結果、生徒に対し義侠的観念と同情心の向上を図り経費の節約および、のちのち寒さが身に染みてきた避難者の寒苦を思い、少しでも早く配給しようという趣旨で尋常6年、高等科、補習科の女生徒および有志の婦人に託し、教員補助のもとに一日専門家を招聘して講習をしたうえで、調製に着手し、裁断、縫製、綿の入れ方の3部に分けて約一週間で調製を完了させた。

調製した布団の枚数 1,065組
調製に従事した人員
高等科生徒 166人
尋常科6年生徒 200人
篤志婦人 5人
教員 35人

尋常小学校6年生は、現在の小学6年生と同年齢である)

このように、膨大な被災者を支援するため、多くの人たちが涙ぐましい努力を行った様子がうかがえて興味深い。

ところで、このデジタル版「大震災千住町写真帖」を読んでいたら、最後に次の記述を発見した。

震災救護事務関係者感謝慰労会の景況

千住町ハ大震災ニ際シテ救護及警備等ニ従事シタル軍人分会員及青年団員、地方篤志家等ノ慰労ヲ兼ネ、大正十三年五月四日千寿第二尋常小学校ニ於テ感謝会ヲ挙行シ県警官衙及本町名誉職位並ニ在郷軍人会本部支部等ヨリ参列セラレ功労者ニ対シテ感状及記念品救護徽章記念写真帖等ヲ贈リ式後懇談会ヲ開キ連合警備隊ヲ解散シテ茲ニ全ク震災事務ノ終了ヲ告ゲタリ

表記が微妙に異なるが、ここに記載されている「救護徽章」というのが、画像の「救護記章」を指しているのは明らかであろう。すると、正確には「大正12年9月から大正13年2月」の期間における救護活動の功労者に対して「大正13年5月4日」に開催された「感謝会」において記念に贈呈されたバッジ、ということである。

発災から半年で「茲ニ全ク震災事務ノ終了ヲ告ゲタリ」というのは、被害の大きさからみて今の感覚からするとものすごく早く、本当なのかとも思うが、ともあれ感謝会が開催されるほどには復興が果たされたのであろう。

私のこのバッジも、この日の感謝会でだれかが受け取って胸に輝いていたのであろうかと思うと感慨深い。このバッジを受け取った人物は、いかなる活動に従事し、どんな光景を目にしたことだろうか。

ところで、こういう内容のバッジが何でこんなデザインになるのか。中央のマークは当時の町章らしい。周囲の月桂冠?やマルタ十字風のかざりは、なんかそれっぽい雰囲気を出すために深く考えないでデザインされたような・・・なんなんだろう。

 

今日は100年目の節目として、これまで当ブログで紹介してきた関東大震災関係の当ブログの記事を列記しておこう。

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日本 航空章(逓信省)

航空章(逓信省

 

入手時は正体不明だったこのバッジ。ようやく判明したので、備忘録として残しておこう。

桐紋に羽の生えたようなバッジで、裏面に「航空章」とだけある。オリジナルの黒漆箱の裏には「逓信省」。逓信省が出した航空関連ものらしく、航空に関する何らかの功労章的なだろうと漠然と思っていた。しかし小さいバッジながら存在感のあるバッジだなあ・・・と入手したものである。

逓信省令第31号(昭和11年8月27日)で定められた改正「航空奨励規則」第3条に次の記述がある。

航空機ノ乗員ニシテ多年運航ニ従事シ技術抜群ナルモノニハ航空章ヲ授与ス

航空章ノ制式ハ別図ニ依ル

航空章ハ左胸上部ニ之ヲ佩用スルモノトス

なるほど、まず授与対象は「航空機ノ乗員」であり、要件は「多年運航ニ従事シ技術抜群ナルモノ」と規定されている。一種の功労章といえる。

航空機乗員向けでありながら、あくまで民間用であり、軍事関係ではないのがちょっとユニークである。

日本 「人は右 車は左」バッジ

 

「人は右 車は左 対面交通(香川県)」バッジ

このバッジの正体は何だろうか。単なる交通安全キャンペーンか。「人は右、車は左」という交通ルールなら、小学生でも知っている。このバッジはそんな当然のルールを訴えるために作られたものなのか。

いや、当然ではないから作られたのである。「人は右、車は左」という歩行者と車の対面交通方式は昭和25年に作られた交通ルールなのである。

以下は、愛知県警の「交通事故を防ぐには」のQ&Aである。

Q26 日本では、なぜ「車は左側通行、人は右側通行」なのですか。
A 日本で、「車は左側通行、人は右側通行」になったのは、昭和25年ころからです。

それまでは人も車も左側通行でしたが、交通安全のために、車は従来のまま左側通行とし、人は右側通行とする「対面通行」を取り入れたからです
なお、外国ではアメリカなどが「人は左、車は右」の対面通行をとっており、イギリス、インド、オーストラリアなどが日本と同じ「車は左、人は右」の対面通行をとっています。

なぜ日本では昔、人は左側通行だったの?
人や車が通るところのきまりは、明治以前には特別な定めがありませんでしたが、道路交通が発達し、明治33年に左側通行制度が採用されました。左側通行としたのは、昔から武士は左腰に刀をさしていたので、自然に左側を通行する習慣がついていたのを考慮したとも言われています。(右側を通ると刀のさやが触れ合うし、左側からの攻撃に対しておくれをとるからです。)

対面交通方式は、GHQの指導により戦後に決まった交通ルールなのだ。対面のほうが、歩行者が前からくる車の通行を事前に察知しやすいためだと言われる。

道路交通法第10条第1項では、次のように規定されている。

歩行者は、歩道又は歩行者の通行に十分な幅員を有する路側帯(次項及び次条において「歩道等」という)と車道の区別のない道路においては、道路の右側端に寄って通行しなければならない。ただし、道路の右側端を通行することが危険であるときその他やむを得ないときは、道路の左側端に寄って通行することができる。

一方、対面する歩行者同士の通行はどちらかというと、基本左側というのが駅その他の場所での通例となっているように思う。

つまり、車を中心に考えれば、車は左側通行なので、歩行者はその対面側となる右側通行だし、歩行者を中心に考えれば、歩行者同士の場合は左側を通行するということになるのだ。この理屈に自然に気が付くまで、私はかなりの時間を要し、高校生のころまで「なぜ駅構内では人は左側通行に変わるのか」と漠然とした疑問を抱き続けていたように思う。「日本では基本左側通行。車・歩行者の場合は車が優先して左側通行、人・人の場合も左側通行原則が適応される」というルールに自然に気が付いたのは、車を運転するようになってからだったような気がする。

意外とややこしいものである。

そうそう、バッジである。このバッジは昭和25年にできた新しい対面通行ルールをPRするためのものである。香川県で作られたものらしいが、私は他の県で作られた同様のバッジを見たことがある。全国でキャンペーンが行われたのだろう。

当時はこういう目的でバッジが作られたというのが面白いところだ。

中国 「勝利章」

勝利章

終戦から78年目の夏を迎え、当ブログでも関連の品を紹介してみよう。

ただし、日本の終戦によって戦勝国となった中国のモノである。

画像の盾形のメダルは、その名も「勝利章」とストレート。上の方に小さく文字が見えあまり判然としないが、どうやら「中華中学員生兵災義賑会敬贈」と書いてあるようだ。要は学生などの慈善団体のモノと見える。割と大型で、縦40mm以上ある。リボンで吊るすタイプなのだがリボンは失われてしまっている。

兵災」とは要するに「戦災」のことで、中国語なのかと思ったら、あまり一般的ではないように感じるが日本語の辞書にもある。

赤く大きく描かれた「V」の字はもちろん「VICTORY」のイニシャルで、この時期の中国の記念章にはしばしば見られる。

面白いのは「勝利章」と書かれている部分で、これは「十の字を二つ連ねた形」を表し、すなわち「双十節(10月10日)」を表す。中華民国建国記念日で、辛亥革命の契機となった武昌蜂起の起こった日である(1911年10月10日)。このデザインも中華民国のバッジにはよく見られるものだ。

つまりこのメダルは、対日戦争勝利記念と、その直後の建国記念の2つの記念を重ねた記念章なのである。1945年10月に作られたものということがわかる。

彩色はペイントで、青地に赤のV字が描かれた記念章で、残念ながら多くが剥落してしまっている。